渡せなかったチョコレート

Written by 野口@ウェストマー大学(No.0000000006)


私は次々と沸き上がる悲しみを堪えながらその黒いもの−チョコレート−を手にし、口の中へ運んだ。
「苦いよ〜」
どうして? 私は心の中で呟く。いつもは大好きな甘いチョコレートが、今日に限って物凄く苦く感じる。中の甘いブランデー漬けのオレンジピールも、私には全く甘く感じられなかった。確かにチョコレートは、中身を際立たせるために甘さ控えめのブラックチョコレートを使ったけれど、別に変な物を加えていないし、苦いビターチョコレートで作ったわけでも無いのに…涙でチョコレートの形さえはっきりと見えない。

私の頭の中には今日の光景が浮び上がってきていた。今日はバレンタインデー。今年こそは、勇気を出してあの人にチョコレートを渡すと心に決めていたの。このチョコレートだって、この日のために一カ月も前からどんな形にしようかって色々とお菓子の本を見たり、雑誌の記事を読んだり、街で有名なお菓子屋へ行って食べ歩きまでして、ずぅーっと悩んで悩んでやっと決めたんだから。この手作りの一口チョコレート。数はテニスに夢中のあの人がどうかインターハイにいけますようにって、願いを込めて10個作ったの。ラッピングだって凝りに凝った。だって、今までの意気地無しの館林見晴からさよならするために。

伊集院レイ
廊下からふと校庭の方に目を向けると、今年もやはりトラックが1台止まっている。そしてたくさんの女子生徒がトラックを囲み、先を争って何かを投げている。まるで正月の神社でお歳銭を投げるかのよう。あれは伊集院君専用のトラック。毎年この日に、手に持てないくらいにチョコを貰う伊集院君が考え出したらしいの。私も初めて見たときはびっくりした。だって、女の子達が競って荷台に向かってチョコを投げているんだもの。伊集院君って、本当にもてるのね。でも不思議な事に、どんな事があっても絶対に女の子達から、直接チョコレートを受け取らないそうなの。クラスの女の子が言っていたのだけど、直接渡そうとしても気持ちは嬉しいけど、トラックの方へ入れてくれって言うんだって。特定の娘がいないから、不公平にならないように気をつけているのかしら? それとも男の子達が言っているように、ただ見せびらかしたいだけなのかしら? 私? 私はあげない。だって私には本当にあげたい人がいるから…今年のバレンタインデーは本命の一つだけ。他には誰にもあげない。

私は後ろに手を組み、私の想いを込めたそのチョコレートを他の人に隠すように持ちながら、あの人の教室、A組へと向かった。毎度あの人のクラスに向かう度に、なぜこの学校にはクラス替えが無いのかなと少しばかり憤慨してしまう。
(クラス替えがあったら、少なくとも今の状態よりはあの人の近くにいられるのに…) そんな事を思いながら、私は、この1週間悩んだ事−どうやったらあの人に効果的にこのチョコレートを渡せるか−を思い返していた。
いつもみたいにわざとぶつかって〜っていうのは駄目よね。それじゃチョコのためにぶつかったって分かってしまうもの。じゃあ電話で呼び出すって言うのは〜駄目ね。だいたい学校でそんな事をしたら、注目を浴びるだけじゃないの!! あっ、いつもみたいに、留守版電話にメッセージを吹き込むというのはどうかしら? …駄目ね、これも。あの人が学校にいる間に留守電をチェックしてくれなかったら全く意味が無いし、学校でチョコレートは渡せないから。あの人って、テニスうまいし、結構もてるみたいだから。やっぱり、中々一人になっている時を狙ってというのは難しいなぁ。…いっその事、下駄箱の中にでも入れてしまう〜というのは? ううん、駄目。それじゃいつもと変わりが無いもん。
(いつもみたいに消極的に逃げていちゃ駄目なのよ。見晴!! )
結局堂々巡りのまま、時間を掛けて悩んだのに何も決まらなかったな。そしてそれは今も同じ。どんな顔をしてどんな事を話したらいいのかな〜とか、あれこれ悩んでいるうちにあの人がいる教室に辿り着いてしまった。とりあえず私はあの人の様子を伺うために、こっそり扉からあの人の席の方を覗いてみる。あの人は…いた。でもそこには既にチョコを持っている女の子もいた。

虹野沙希
あれ? あの子は確か、サッカー部のマネージャーの。確か虹野さんだったかな? 私、さっきあの子が他の人にチョコをあげている所を見たけど、あの子、あんなに恥ずかしがってなかった。気のせいかな? あの人にあげるチョコ、他の人のよりもずっと豪華よね。考えてみると虹野さん、サッカー部のマネージャーなのだから、他の部の人に義理チョコをあげる必要なんて無いはずだし。もしかして虹野さんもあの人の事を…耳をそばだてていると、彼女が何か言っているのが聞こえる。
「…このチョコレートをつくるのに、朝までかかっちゃって…。」
凄いな。私達女の子の間でも虹野さんって、料理が出来るって評判だもん。私も前に、あの人と一緒にお弁当を食べているところを見たことがあるし…。その虹野さんが朝までかかったチョコだったら、とてもおいしいんだろうな? 彼女、何事にも一生懸命だし何か負けそう。ここからでは彼女の苦心作がどのような物なのかが分からないけれど、私は思わず、両手で持っている私の自信作?と見較べてしまった。だって私だって、私はあの子に較べたら全然料理なんて出来ないし、可愛くないけれど…
「でも食べてもらいたいから、心を込めて…。」
虹野さんはそこまで言って、自分が何を言ったのか気がついたのか慌てて
「あっ、も、もう行くね。」
あの人から立ち去ろうとした。虹野さんは、私がいる扉の方へ駆けてきたので、私は思わず扉の裏に虹野さんに背を向けるように隠れてしまった。どうやら虹野さんは私に気がつかなかったようだ。今ならあの人の前には誰もいないから、私のこのチョコレートを渡すことが出来る。運動部のアイドルである虹野さんからチョコを貰った〜と、他の男子生徒にはやし立てられているあの人の前に立つ事が出来れば…そう、勇気を出せば。でも、ふと私は、あの人は私の事をどう思っているのだろう? と考えてしまった。
(いつもいきなりぶつかってくる変な髪型の女? それとも…)
おそらくあの人は廊下でぶつかっている私と、留守番電話に変なメッセージを吹き込んでいる私が、同一人物だとは気がついていないと思う。でも、それにしてもあの人に私が良い印象を持たれているとは思えない。そんな子がいきなりチョコレートを渡しても迷惑じゃないかな?
(あの虹野さんと較べたら私は……)
そう思うと急にチョコレートを渡すのが怖くなってしまった。
(駄目。こんな気持ちじゃ、とてもチョコレートなんて渡せないよ。)
もう時間も無いし、出直してこよう。

美樹原愛
さっきから先生が黒板に何か書きながら説明している。今は授業中だものね。でも今の私には、そんな事ひとつも頭の中に入っていなかった。
(………。)
落ち込んでいても仕方無いわね。チョコレートを渡せるチャンスは今日しか無いのだから。いまはラプンツェルや白雪姫のような待っているだけのヒロインなんて流行らないの。もっと強気にいかなくちゃ、しっかりしなきゃ駄目よ、見晴!!
(よ〜し、頑張るぞ!)
と声を出そうしてしまったが、よく考えたら授業中よね、今は。そう思って周りを見回してみると、私が知らないうちに授業が終わって休み時間になっていた。急いでA組に向かわなきゃ。私は全身の勇気を振りしぼり、改めてチョコレートを手にしてあの人のいる教室へと向かった。でも、目的のあの人は教室にいなかった。せっかく来たのに、何かはぐらかされた感じ。
(あれ、おかしいな? あの人はどこに行っちゃったのかな? )
いつもはあの人の前で何も出来なくて、遠くからただ眺めているだけだったり、わざとぶつかる振りをして、気を引くくらいしか出来ないくせに、こういうときだけは、積極的になれるから不思議。でももしこうしてあの人を探している最中に、いきなりあの人が現れたら何も出来ないくせに…私はチョコレートを持っている事すら忘れるくらいにあちこち探し回ったけれど、あの人の姿を見つけることは出来なかった。もうすぐ次の授業が始まってしまう。私は仕方無く教室へ戻ることにした。
あれ、向こうから同じクラスの愛ちゃんが顔を下に向けたまま走ってくる。
(どうしたのだろう?顔を真っ赤にして、誰かにチョコを渡したのかな?)
「どうしたの? 愛ちゃん。」
私は愛ちゃんに声を掛けたのだけど、彼女は私に気がつかないでそのまま小走りに行ってしまった。

清川望
気がついたらもう昼休み。私はお弁当を早めに切り上げて、今度こそ勇気を振りしぼってあの人にチョコレートを渡すつもりだった。そこへいつものように、
「見晴ちゃん、よかったらお弁当一緒に食べない?」
愛ちゃんがお昼の誘いにきた。私はいつも昼は愛ちゃんと一緒にお弁当を食べている。う〜ん、誘いに来てくれるのは嬉しいのだけど、今日はいつもみたいにゆっくりとしていられないから断ろうかと思っていると、愛ちゃんは少し困ったような様子で
「見晴ちゃん。もしかして一緒に食べる人…いるの?」
どうやら愛ちゃんは私に先約があるものと勘違いしたみたい。考えてみると、別に早く切り上げるだけなら愛ちゃんの迷惑にならないし、それに…。それに私は、なぜか友達の愛ちゃんが、勇気を出してチョコを渡した相手の事が気になった。だって、愛ちゃんって、女の私から見ても異性に対して、物凄い警戒心を持っているように見えるから。その愛ちゃんが勇気を出して男子にチョコをあげるなんて、愛ちゃんには悪いけれど意外だもの。よっぽどその人が気になるのだろう。私は少なからずその−誰か分からないけれど−男子について興味を持っていたので、悪いとは思ったけれど、愛ちゃんに聞いてみよう。もしかしたら、愛ちゃんが私にチョコレートを渡す勇気をくれるかもしれない。
「ううん、そんな事ないよ。じゃあ、一緒に食べようか? 愛ちゃん。」
一見和やかな雰囲気で愛ちゃんとの昼食が始まった。でも私はどうやって愛ちゃんからチョコを渡した男の子のことを聞き出そうだそうか、そればかりを考えていた。気のせいか、愛ちゃんの様子がどこかおかしい。私が話すことに対しての反応がどこかうわのそらで、あまり会話が弾まない。こう言ったら愛ちゃんに失礼だけど、いつもよりもぼーっとしているような…こうなったら、私は思い切って愛ちゃんに直接聞いてみることにした。これくらいあの人に話しかけるのに較べたら…
「ねぇ、愛ちゃん。聞きたい事があるんだけど…」
突然の私の質問に、少し驚いた様子ながらも愛ちゃんは返事をしてくれた。
「なあに?見晴ちゃん。」
「実は……」
さっき愛ちゃんチョコを男子に渡したでしょ? と言おうした瞬間。そこへ、
「ねぇねぇ、見晴、愛。聞いた? ビッグニュースよ!」
と息を切らせて友達がやってきた。どうしたんだろう? そんなに慌てて、
「何が?」
私は何のことか判らず、思わずそう尋ねてしまった。もう、せっかく愛ちゃんに聞こうと思っていたのに…私の心を知らない彼女は、私の反応を当然の事と受け止めて話し始めた。
「あの望お姉さまが、男にチョコをあげたんだって!」
望…お姉…さま?
「望お姉さまって、あの水泳部の」
確かに清川さんが、私達女の子からも人気があるのは、私達の中でも周知の事実だったけれど、私のすぐ近くに清川さんのファンがいたとは知らなかった。しかも年下からならまだしも、同じ学年の女の子からお姉さまと呼ばれていたとは。今日は清川さん、女の子達からチョコを貰って大変だろうな〜と少しばかり同情した。彼女の次の言葉を聞くまでは…
「そう、あの清川望お姉さま。そのお姉さまが、さっき屋上で、最近テニス部で最近負け無しの男子生徒にチョコをあげたんだって。誰だったか、名前は忘れたけれど、ちょっちショックよね。」
"ちょっちショック"。彼女がこの表現を使う時は、彼女自身は気がついていないみたいだけれど、彼女が実は物凄くショックな時だけなの。私は確かに彼女のある言葉に反応したけれど、彼女には何がそんなにショックなのだろう? まさか彼女も…私の前に座っている愛ちゃんも、私と同じように彼女のある言葉−テニス部で評判の同級生−にピクッと反応したように見えた。
「ショック? どうして?」
私は愛ちゃんの様子をさりげなく伺いながら、彼女に尋ねた。
「それがさ〜、あの望お姉さまの事だから、そいつに義理でくれてやっているのだと、思っていたんだけど〜、聞いた話によると、顔をもう真っ赤にして、もしかしたら告白するのじゃないかって位の勢いだったんだって。私、お姉さんに憧れていたのに…ああ〜ん、ショック〜」
気のせいか、愛ちゃんの様子がそわそわして落ち着かない。なぜか悲しそうな表情をしたまま急に黙ってしまった。
「そう……なの?」
生返事をする事しか出来なかった。私は友達の意外な趣味にも驚きはした。でもそれ以上に愛ちゃんの反応も気になった。
「しかし、その男もチョー鈍感よね…………」
彼女はそのまままくしたてていたが、私は彼女の話の内容よりもむしろ、愛ちゃんの様子とあの清川さんがチョコをあげた相手の事について考えていた。テニス部でテニスがうまい同級生の男の子。私が知っている限りでは一人しかいない。そう。多分、あの人だ。あの清川さんもあの人にチョコをあげたんだ。そして恐らく愛ちゃんも…
そのとき、私は前の休み時間に愛ちゃんの姿を見掛けたときの事を思い出していた。あの時、愛ちゃんは私が声を掛けたのにも気が付かなかった。どうやってあの人にチョコを渡したのかは知らないけれど、異性に対して極端な程の抵抗を示す愛ちゃんが、あの人にチョコをあげるなんて、並大抵の勇気では渡せなかっただろうな。清川さんにしても同じ事が言えるかも。普段の様子−男なんて全く興味が無い−からでは想像もつかないけれど、凄く勇気が必要だっただろうな。こうしてはいられない!! 急いであの人のクラスまで行かなくっちゃ! 私は大方お弁当を食べ終わっていたから、急いで片付けて友達の相手を愛ちゃんに任せて席を立とうとした瞬間、無情にも昼休み終了の予鈴の鐘が鳴ってしまった。

午後の最初の授業は、私が所属している文芸部の顧問の先生の授業だった。授業の後半は小テストで、しかも運が悪いことに、部活で先生によく知られている私が、プリントを職員室まで集めて持っていく役目をする羽目になってしまった。こんな事で時間を潰している暇はないのに〜と思いながらも、プリントを集める私。時間一杯まで悪あがきをする男子生徒もいて、思った以上に時間が掛かってしまい、職員室から教室に戻ってきたときには、あの人の教室まで行っている時間はもう無かった。

早乙女優美
とうとう放課後になってしまった。取る物もとりあえず、私は今度こそ〜と気を取り直してあの人がいる教室へと向かった。
(あなたに一目惚れしてしまったの。そしてそれから、あなたの事をずーっと見ていたの。)
この気持ちだけは嘘偽りはない。A組に来てみると、あの人は既に部活に行ってしまったみたいだった。そうするともう下校時を狙うしかないのだけれど、急げばまだ部室に向かう途中で渡せるかも。
(間に合って! お願い。)
そう思いながら私は昇降口へと急いだ。運動部の生徒は、部室に行くために一度下駄箱へ行き、下履きに履き替えなくてはならないもの。私は昇降口を出ようとしていたあの人の後姿を見かけた。
(やった。追いつけたんだ。)
私は高なる胸の鼓動を押さえるように右手で胸を押さえ、息を少し整えてから急いで下履きに履き替え、あの人の後を追った。
昇降口を出たときに、外の方から女の子が、あの人の名前を"さん"付けで呼んだのが聞こえた。声の方を見てみると、そこにはあの人の後姿が、そして彼の前に誰か、私の知らない女の子がいた。あれ、あの子は私達の学年じゃ無いわね。それに彼の事を"さん"付けで呼んだから1年生かしら? ポニーテールの元気そうな女の子。黄色のリボンが眩しいくらいに、この子の雰囲気に合っている。その子は腕を後に組んでいて、どことなく落ち着きがなかったのだけど、しばらくすると何かの合図のように靴の爪先をトンと揃えてから、
「これ、チョコレートです。」
と言って箱を手渡した。とまどいながらも彼女のチョコを受け取るあの人。
(ふ〜ん。あの子、優美ちゃんって言うんだ。可愛い子だな。部活の後輩? それとも誰かの妹かしら?)
「これ以外のチョコレートは貰ってもいいけど、絶対食べないで下さいね。」
即答ではないけれど、返事をするあの人。
(えっ? 嘘?)
私はそのとき、息が止まるくらいに驚いた。あの人の返事の様子から私はすぐに優美という娘の調子に合わせたのだと、判ったけれど、優しすぎるよ。どんな女の子にも…
「ホント? 絶対約束だよ。それじゃあ。」
優美ちゃんは約束を守ってもらえる事に安心したかのように、嬉しそうに笑い、彼女は私の方へと走ってくる。私はあの人が振り返るのではないかと思って、慌てて持っていたチョコレートを後ろに隠した。本当は私自身も姿を隠しかったけれど、周りにすぐに隠れるような場所はなかったので、チョコレートを隠すのが精一杯だった。さすがに彼女、優美ちゃんは、私の不自然な行動に疑問を持ったらしくて、目の前で立ち止まり、少し不思議そうにしばらく私の事を眺めていた。彼女の目は私に何か言いたそうだ。心無しか私への視線が冷たい。私は彼女に負けないように全身に力を入れて、視線に対抗した。
(私だって…)
無言での対決がしばらく続いたけど、結局彼女は何も言わずに、私の脇を通って昇降口へと走っていった。随分と積極的な子だな。うらやましい。私にもあの子のような勇気があれば、もっと積極的になれたら…気がついた時には、テニス部の部活は始まっているみたいだった。私は諦めて教室へと戻った。

そして、藤崎詩織
私は今、早歩き気味の歩調であの人の家へと向かっている。珍しく部活が運動部よりも遅くなってしまい、終わった時にはテニス部は、既に1年生が用具の後片付けをしているだけだった。私は学校ではチョコレートを渡すことが出来なかった。だから最後の望みを託して、あの人の家へと向かっている。
(追いつけない、かな? )
私はいつに無く弱気だった。だって学校でチョコレートを渡せなかった私が、家に直接押しかけて渡すなんて、そんな強引な事出来ないよ。それが出来るくらいだったら、いつもわざとぶつかって気を惹こうなんて、回りくどいことをするはずがないもの。私はこんな事なら、チョコレートを渡せないほうがいいのではないかとも思った。でもそれは駄目。去年だってチョコレートを渡そうとした。あの当時はあの人は今ほどもてていなかった。でも渡せなかった。
(だから、だから今年こそは勇気を出して、意気地無しの館林見晴からさよならするって、決めていたのに…。)
私はあの人がいつも登下校に通っている道を歩いてきたのだけど、あの人の姿を見ることは出来なかった。他の女の子と一緒に帰っていたり、寄り道をしていなければ、この道を通っているはず。私はあの人の姿を見落とさないように注意しながら急いでいたが、憧れのあの人の姿を見ていない。あの角を曲がれば、あの人の家までもうすぐ。
(このまま帰っちゃおうかな? )
また私の悪い弱気が出てきた。そう思いながらも、曲り角を曲がろうとすると、いつも見ている後姿が目に入った。あ、あの人が今家の中に入ろうとしている。
(今よ、見晴!!あなたには今しかもうチャンスは無いの。)
私は精一杯の勇気を出してあの人に精一杯の私の想い−チョコレート−を渡そうと声を掛けようとしたの。でもその声は聞き覚えのある声によって遮られてしまった。そう、あの人の幼なじみの藤崎さんが彼の事をあだなで呼ぶ声によって…私は急いで角の電信柱の陰に隠れ、そっと二人の様子を伺った。藤崎さんがあの人に何か話している。そして、
「これ、形が悪いかも知れないけど…。」
そう言って彼女はあの人に綺麗なラッピングに包まれたチョコを手渡す。
『あ、ありがとう。嬉しいよ。』
あの人の声が普段よりも嬉しそうなのは気のせいかな?
「ちょっと学校では、恥ずかしくて渡せなかったの…。」
あの藤崎さんが学校で渡せないようなチョコって、一体どんなチョコなんだろう?
『どうして?』
あの人はものすごく不思議そうな顔をして尋ねる。もう鈍感なんだから、女の子がそういう事を言う時は…。私はまるで自分に言われたかのように、ぷくっと頬を膨らませてすねた。そしてこのときばかりは少しだけ藤崎さんに同情した。
「だって…特別な想いを込めたチョコだから…。」
『えっ?』
ものすごく嬉しそうな顔。あの人のあんな表情始めて見た。
『それって…。』
もし私があの人にこのチョコレートを渡したとしても、あの人はあんなに喜んで
くれないだろうな。ちょっぴり悔しい。
「そ、それじゃ、また。」
藤崎さんが恥ずかしそうにあの人の前から去っていき、彼女の門の前でもう一度あの人の方に振り返り、嬉しそうに家の中へと入っていった。
あの人は藤崎さんが手渡したチョコを手に一言。嬉しそうに
『特別な想いか…。』
と呟き、家の中へと入っていった。私は何も出来ずに、ただ陰から黙ってその姿を見ていることしか出来なかった。

私は打ちのめされた気持ちで帰路に着いた。
(結局チョコレート、今年も渡せなかったな。)
無駄になっちゃったな。せっかく今年こそは無駄にしないぞと心に決めていたのに… 私が一番見たかった顔、そして他の女の子には見せて欲しくなかった表情−あの人の本当に嬉しそうな姿を−を藤崎さんに、私の目の前で見せられてしまったもの。今日こそ、今度こそ遠くからあの人を眺めている見晴とはさよならするつもりだったのに、何度もチャンスはあったのに、そのたびにいつもの意気地無しの見晴に戻ってしまい、何も出来なかった。このチョコレートどうしよう?
(自分で食べるしかないよね。あの人のためだけに作ったんだもん、このチョコレート。他の誰にもあげられないよ。)

そしていま、ここは私の部屋。目の前には涙でよく見えないけれど、チョコレートがまだ半分以上も残っている。バレンタインデーに渡せなかったチョコレートなんて、魔法の解けたシンデレラみたいなものね。ううん、違うか。シンデレラは王子様にガラスの靴を残せて最後には王子様と幸せになったけれど、私はあの人に何も残していないもの。このチョコレートは人魚姫みたいに想いを伝えられず、文字通り水の泡になって消えていくのね。判っているの。あの人にきちんとチョコレートを渡せなかった自分が一番悪いって事。でも……でも今は涙が止まらない。


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