がたっ.
突然の物音.私はびっくりして顔を上げた.
「あら,こんな時間に人がいるとは思わなかったわ」
「紐緒……さん」
片手にノートパソコンを抱えているのは,きらめき電脳部内外
で一目置かれている紐緒結奈である.私は涙をぬぐった.紐緒さ
んは,私の前のいすに座る.
「この時間まで,何をしていたの?」
「うん……いいの,何でもないから.そろそろ帰る時間だしね」
「お座りなさい.あなたの言動と私が入ってきた直後の様子から
判断できる内容は……じっとしてなさい,無意味な行動は結果に
誤差を生むわ」
紐緒さんはキーボードをたたき始める.数秒でその音はやむ.
すでに私が眼中にないように画面を流れる文字を見ている.暗く
なった教室で,その画面の明かりが反射して紐緒さんの顔を照ら
している.
不意に,紐緒さんが口を開いた.
「結果が出たわ.79.3%の確率で,あなたは深刻な悩み事,それも
おそらく恋愛の悩み事を抱えているようね.しかも,あなたはそ
れを誰にも相談できないでいる.コンピュータの推論では,あな
たにはおそらく,誰にも知られない好きな男の子がいる……違う
かしら?」
ズバリ直撃.私は黙り込んでしまった.
「科学はすべてに勝るのよ.それはともかく,何を悩んでいるの?
卒業までもう時間がないじゃない.あなた,このまま黙って終わ
る気なの?」
「え……」
それは,そうだけど…….
「私が相談に乗ってあげるのが,そんなにおかしい?」
私の表情を読みとったのか,紐緒さんは私に向き直って,柔らかい
言葉遣いで言った.
「え……でも,紐緒さんって恋愛には全然無関心だと」
「男になど興味はないわ」
「じゃあ……」
「たまには,そういう日もあるのよ,私にも」
紐緒さんは,いたずらっぽく笑う.以前まで見たことのある紐緒
結奈とは大きく違った表情だった.私がどうしていいか困っている
と,紐緒さんはその笑いを崩さないまま,
「館林さん,たまには,喫茶店にいくのもいいんじゃないかしら?
……あなたに実験台になってほしいとか,データを取らせてほし
いとか,そういう下心で言ってるわけじゃないのよ,私は」
「そんなこと,思ってないよ……」
「まあ,どちらでも結構だわ.あなた,アールグレイのおいしい店
知ってるかしら?」
「駅前の喫茶店なら,紅茶はおいしいけど……」
「わかったわ.行くわよ」
「え,でも……」
「つべこべ言わずにいらっしゃい.あなたには,相談相手が必要な
の.わかる?」
有無を言わさず,私を引き立てる紐緒さん.私は半ば引きずられ
るように席を立ち,学校を後にした.
太陽はすでに,西の空に隠れている.
砂糖はスプーンに一杯.
普段はダージリン,しかもスーパーの安物ばかり飲んでいる私だった
が,今日はせっかく紅茶のおいしい喫茶店に来たんだと,一番の好みの
アッサムを注文した.
濃い液色と濃厚な香りがあるので,ミルクティーにする.コーヒーホ
ワイトを出すような安い喫茶店ではない.乳脂肪分の少しだけ多い牛乳
が紅茶と一緒に出てくる.香りが鼻孔に心地いい.軽くかき混ぜながら
紐緒さんの方を見ると,アールグレイをストレートで飲んでいる.砂糖
の一粒も入れた様子はない.
「紐緒さん,砂糖は?」
「添加物を入れると,紅茶本来の味が失われるわ.カロリーの摂取量を
計算している私には余分な砂糖など不要……まあまあね」
ティーカップを置く.
「まあ,ミルクのない紅茶を飲む者は飲み方を知らない,という意見も
あるそうだから,私は気にしないわ.お入れなさい.どちらが正しいか
などという論議は意味を持たないことは,聡明なあなたならおわかりよ
ね」
「ええ,まあ,そのつもりだけど」
程良く冷めた頃合いを見て,私は紅茶を一口含んだ.
一瞬,静かな時間が吹き抜ける.
「それで,あなたはどうするつもりなの?」
「どうするって……私なんて,彼にとってなんでもない存在だよ.ただ
時々目の前にふらっと現れるだけの存在だもん.そんな無意味な存在に
なにができるの?」
「あなた,存在の定義を間違っているわ」
「定義って……」
「いい? 無意味なものは最初から『存在しない』のよ.もっと厳密に
いえば,『無意味であること』という事象自体『存在しない』の.物体
や精神が存在を示すためには,それ自体が何らかの意味を示さなければ
ならないの.もし,あなたがその男に対して無意味であったならば,そ
の男は,あなたを認知できないわ.あなたは存在しないことになるから.
彼はあなたに何か言葉をかけたんじゃないの?」
「何度目かにぶつかったとき,『いいよ.もうあきらめてるから』って
言った……」
「ごらんなさい.あなたは彼に正しく認知されている.彼にとって無意
味な存在ではありえないのよ,その言葉が十分な証明になるじゃない.
あなたは自分で勝手に,彼に対する自分の存在を否定しようとしていた
のよ.それはあなたの本意なの?」
「違う……ちがうよ.彼に見つけてもらいたいから,彼に私のこと知っ
てほしいから,私……」
「それなら,まずその『無意味な存在』という矛盾した考えは捨てなさ
い.いいわね」
「……」
彼女の議論は,多少飛躍した部分はあったにせよ,私の心の矛盾を確
かにとらえていた.私は自分をアピールしたい一心で彼にぶつかるとい
う行動に出た.それはなぜ? その理由を私は今まで否定していたのか
も知れない.彼が好きだという本心を,それが叶わないと感じた瞬間に
否定し始めた…….
「精神の衝動によって起こる行動は,あなたの精神とは矛盾し得ない.
それくらいは自明でいいわね.精神を否定する精神もまたあなたの精神
でしかあり得ないから……禅問答は嫌いだけど,これは真理」
私は何も言えず,紅茶を飲む.Cogito Ergo Sum. そのくらいの言葉は
私だって知っている.でも,実際にどういう意味だったか,今初めて感
じた……痛いほど.
「それで,あなたはこのままでいいと思っているの?」
「……」
「答えなさい」
普段の紐緒さんの口調.
「……いやだよ,当たり前じゃない」
「それなら,あなたはなぜ行動に出ないの?」
「……」
「怖いのね.あなた」
「……」
「あなたは怖いのよ.彼に声をかけるのが.自分のことをとりあってく
れない男の姿が目に映るのよ.どこにでもいるふつうの女として扱われ
る瞬間を知るのが怖いのよ」
「……そうだよ,怖いよ!」
私は大声になった.感情が吹き出た.
「怖いに決まってるじゃない! 好きな人に,なんとも思われず,ただ
忘れ去られる一枚の枯れ葉になるなんて! そんなの嫌だよ! そう,
私はオズの国に住むライオンよ! 勇気もなく,友もなく,そして形の
ない恐怖におびえる,臆病なライオンだよ!」
「お黙りなさい」
彼女の声は大きくなかったが,我を忘れそうになった私を制止するに
は十分だった.私は真っ赤に火照る顔をうつむかせながら,また黙った.
「あなたは結論を恐れるのね.そう,結論は時として自分の希望を裏切
るもの.科学の結論もそうして多くの科学者を苦しめたわ.でも,そう
いった結論は結局科学のために利用される.結論は後の科学の,より高
いところのための礎となる」
「……」
「歴史には強い館林さん,あなたのことだから多くは語らなくてもわか
るはず.結論をねじ曲げた世界,過去のキリスト教の世界や多くの独裁
者の世界がいかなる最期を遂げたか.あなたの導く結論は,世界を動か
すことはないだろうけど,あなた自身の未来に続く.あなたは結論をう
やむやにし,彼らの二の舞を踏む愚か者なの?」
「……」
「真理を冒涜するのは,許されないことよ.真理を知らず過去に消し去
ることは,あなたにとって悔恨,いえ,汚点になる」
「……」
「それでも,あなたは『臆病』などと言うつまらぬ殻であなたの精神
を守り,敗残者になるつもりなのかしら」
「……嫌」
のどの奥から,絞るようにして出たその声は,まるで私の声じゃない
ように,かすれて弱々しかった.でも,それが,私の本当の声だったの
かもしれない.
「……嫌だよ.そんなの……」
「まあ,理解力は認めてあげるわ」
紐緒さんはすげなくそういって,再びティーカップをあげる.すっか
り冷めた紅茶を飲み干すと,彼女は立ち上がる.
「しばらく考えることね.真理は自ずとあなたの中から浮かび上がるは
ず.理解力のあるあなたなら,時間はかからないでしょう」
そういって,テーブルの上の伝票を取り上げる.私がはっとして,ポ
ケットから代金を出そうとすると,紐緒さんは教室で見せたあの表情を
見せて私を制止した.
「いいお店を教えてもらったわ.そのお返しよ」
「ありがとう……ごちそうさま」
「礼など結構よ.たまには私にも気まぐれがあるというところね.あな
たは幸福だわ.こんな気分の私はめったにいないのよ」
振り向かずにそういって,彼女は店を出た.
扉のチャイムが,涼しい音をたてる.店はあたたかかった.
卒業式の前日,私は,真っ白の便せんに,一行だけ,手紙を書いた.
信じてはいなかった.
ただ,結果が知りたくなっただけだった.A組の彼の席は,もちろん
知っている.私は,彼が再び,卒業式の後でその席に戻ってくることだ
けを祈って,手紙を入れた.
そして,古い大木は,私を受け入れるようにひっそりと,でも温かく
わたしに囁きかけていた.さらさらという葉ずれの音が私の心を不思議
と落ち着かせてくれた.どうしてだろう?
いつから語られているのだろう,伝説…….
この木の下で,卒業式の日に生まれた恋.女の子からの告白で生まれ
た恋は,そのふたりを永遠に幸せにしてくれるという伝説.メジャーな
伝説ではあるが,今日,ここには誰もいない.伝説は伝説であり…….
信じているものは少数なのかも知れない.
現に,卒業よりももっと前につきあいだした恋人たちもいる.すべて
が伝説で支配されているわけではない.でも,私はどうしてここを選ん
だのだろうか?
やっぱり,ライオンだったのかも知れない.オズの国に住む臆病なラ
イオンは,オズの魔法使いから瓶に入った勇気を分けてもらった.もち
ろんそれは,ただの水かもしれない.でも,分けてもらったという事実
が彼に真の勇気を与えた.私は寓話に自らをなぞらえたのだろう.この
古木の伝説があるから,ここでなら,言えると.
この木が,私にとっての勇気の瓶.
時計を見た.
もう,卒業式が終わって,二時間.
日も傾いていた.
やっぱりね.やっぱり……私なんかじゃだめだったんだ.そりゃそう
だ,いきなり廊下でドスン,だなんて,今思ったら笑っちゃうよ.おか
しくておかしくて,涙が出るよ…….
結論だって,わかっていたんじゃない.どうして泣くんだろう.最初
から,手紙を書いたときからこうなるって,わかってて書いたじゃない.
この伝説の木の下にいる間だって,来るはずないってわかってたじゃな
い……なのに,どうして涙が,とまらないよ…….
帰ろう…….結論は出た.次の証明の足がかりだもの.つらくても受
け止めよう.紐緒さんにそう言われたじゃない.わかってるはずでしょ,
館林見晴.
伝説の木が,私を呼び止めたような気がした.
違う,誰かが呼んでいるんだ…….
「……おーい」
……あの,声は……急速に大きくなる,足音.息づかい.
一目惚れの彼が,近づいてくる.あの瞳が……私の心をとらえて離さ
なかったあの澄んだ瞳.声,表情……何もかも.好きだった,でも,一
目惚れだった…….
(まだ,こだわるの? 陋習は科学の敵よ)
紐緒さんの声が聞こえた気がした.
「ハァ,ハァ.探したぜ,学校中」
木に手をついて,私を見上げる.息が荒い.
「……もう,来てくれないかと思った……」
「まさか,手紙出したのが君だなんて,思いもしなかったから,学校中
かけずりまわって探したよ.名前も知らない女の子探すの,苦労したん
だぜ」
「私を……探してくれてたの?」
「全く……まさか君が俺の机の場所知ってるはずないからって,てっき
り別の誰かが俺に手紙を出したんだって思った,だから君に何があって
も会いたかったんだ.他の女の子になんか,会う気なかった.だから,
ここが最後の賭けだったんだぜ」
「じゃあ……」
「出した手紙にぐらい,名前書けよ,今度から.って,名前書いてもわ
からないか……はははっ」
私は,新たにほほを伝う涙に気がつかなかった.
「それじゃあ,私のこと……」
「あんな変なことされて,気にならないわけ,ないだろう? もう少し
俺が馬鹿だったら,君の気持ち拾い損ねてるよ.シャイなんだから」
「あ……」
私は一瞬,言葉を失った.涙で潤んで,何も見えなかった.
でも,さっきまでとは,違う涙.
「……待っててよかった,あなたに会えて…….ありがとう……私,今
すごく幸せだよ……」
「おい,なんか言うこと残ってるんじゃないのか?」
彼は言う.心なしか,顔が赤い.赤いのはきっと私も同じだっ
ただろう.私は小さな声で,でも,確かな声で……
「好きです.初めて見た,その日から……」
さようなら,臆病なライオン…….