愛は巡る

Written by KURAMOTO Itaru(No.0000000021)


「やーん,ひどい雨……」
降り続く大粒の雨をぼんやりと眺めながら,見晴はため息をついた. ハンカチはすでにすっかり水分を含んで重くなっている.髪と顔に かかった雨はふき取ったが,肩をぬらしている雨は乾くまで待つし かないようだ.
もうすぐ,春が来る.2月のさなかに雨が降ることはそれほど珍しい ことではない,でも,その雨は冬の終わりを告げる暖かい雨でもあ った.もうすぐ春が来て,そして卒業式.3年間なんて短かった.
見晴は思う.ひとりの男の子を追いかける3年間だった.3年間追い 続けた.そしてこの樹,伝説の樹の下でその想いを告白する.ずっ と見ていただけの想い出も,これから新しく変わるために,変える ために.
もしかすると,断られるかも知れない.特定の彼女はいないけど, だからといって名前も知らない女の子に告白されても困るだけかも 知れない.だけど,それはきっとわかってくれる.持ち続けた私の 想いを,ここで,この樹の下ですべて話せば.きっとわかってくれ る.そう,見晴は信じていた.
ゴロゴロ……
稲光が見えた.徐々に雷雲は近づいてくる.雨はさらに激しさを増 す.だが,伝説の樹は,何百年も見守ってきたこの大地を,降りし きる雨から柔らかく守っている.遥かな昔は動物たちが宿り,今は 恋人たちの傘として,温かい目を向けてくれている.
ゴロゴロ……
「やだ,だいぶん近くなってきた……」
見晴は黙っているのが心細くなってきた.真っ黒い雲がその勢いを 増しながらどんどんときらめき高校のほうへ近づいてくる.空気が 妙にぴりぴりと電気を帯びたようになってきた.
雲は高校の空を覆い尽くし,まるで闇夜になった.
瞬間,空がまばゆく輝くのを見晴は見た,ように思った.

『ディメンジョンメータに異常反応確認』
仮眠を取っていた彼女を起こすには十分な警告音だった.きらめき 高校科学部・紐緒結奈.科学部部室で仮眠を取っていた結奈は警告 を発したメータのデータを拾い始める.
刹那の無言の後,結奈はつぶやいた.
「次元がゆがんでいるわ……かなり大きいエネルギーが発生したの かしら,この雷で.それにしても大きな歪みだわ.何事もなければ いいのだけど……調べてみる価値はありそうね」
結奈は白衣のまま部室のロッカーを手当たり次第に開き,必要そう な機材を次々と取り出し始めた.
数分後,結奈は完全武装で雨の降りしきる外へと飛び出していた.

「……ったたたぁ」
落下感覚に似た感じのあと,不意に周囲が明るくなった.雨の音は 止み,乾いた空気がほほを流れた.目を開けると,そこは見慣れな い商店街だった.
「あれ……?」
見晴はあたりをきょろきょろと眺めた.人通りの多い商店街はちょ うど夕方の買い物客でにぎわっている.思い出したように腕時計を 見ると,ちょうど午後4時である.一瞬何が起こったかわからず, ぼんやりとしていると,商店街の電気屋さんから不思議なメッセージ が聞こえてきた.ラジオの放送らしい.
『……本年度より新たに500円硬貨が利用されるのに並び,これまで 使用されてきた500円札が姿を消すことに……』
懐かしいラジオ番組の再放送でもやっているのだろうか? 見晴は 一瞬そう思ったが,その電気屋のショーウィンドウを見て,青ざめ た.そこには,『1982冬のバーゲンセール実施中!』と大きな文字 で書かれていた.
「ちょ,ちょっと待ってよ!」
誰にいうでもなく見晴は叫んだ.そんなはずはない,自分が生まれ たのは1980年.遅生まれで高校3年なんだから,今年は1998年のはず である.今1982年だとすると,私はよくて3歳…….
見晴は突然駆け出した.恐怖が自分の胸を襲った.現実感のない世 界が自分を包んでいることが恐ろしかった.ここには,私を知る人 はいない.この17歳の私を知るひとは……それに気づくだけで,胸 が痛んだ.
どうしてなの……
走り疲れて公園のベンチに腰掛ける.見たこともない児童公園.子供 たちが楽しそうに走り回っている.ふだんと何も変わらない景色.「な にもおかしくない」世界が,見晴にとっては狂っているのだ.
心臓の鼓動はおさまらない.汗が,まだしめっている制服に染みる.
走り疲れて,混乱が徐々に収まり始めた.つれて冷静さを取り戻すと, 見晴は顔を上げた.
「……そうだよ,変かも知れないけど,いまそんなことで悩んでいて も仕方ないよ.それより,これからどうするか,考えないと」
大きく息をつく.子供たちは公園から帰り始めた.見晴はその様子を 見ながら,まずここがどこかを調べることにした.駅があれば,どの あたりに昔の自分の家があるかわかる.
昔の自分の家を探してどうするか,までは考えないことにした.
立ち上がり,公園を出て通りに出ようとした瞬間,けたたましいクラ クションがなった.反射的にそっちを見ると,2,3歳の男の子が道路 の真ん中で立ちすくんでいる.
「危ない!」
見晴はその場から飛び出し,立っている男の子を抱え込むように反対 側へと飛び退いた.地面に右肘をすりつけながらも男の子を抱えて. 直後,急ブレーキをかけた大型トラックが,男の子のいたちょうどそ の場所を踏みつけるように停車した.
「馬鹿野郎! お前んところのガキだったらもっと気をつけてろ!」
運転席から身を乗り出して怒鳴りつけるトラックの運転手.見晴は ひとまず謝って,男の子にいった.
「ほら,君も謝りなさい」
「……ごめんなさい」
男の子は恐怖の表情のまま,いわれるままに頭を下げた.
「今度こんなことになったら轢かれるぞ,だから道の真ん中でぼけーっ と立ってるんじゃないぞ!」
見晴は何度も頭を下げた.
トラックが去り,あたりは日常に戻った.見晴は右肘の傷を思い出した. 見ると制服がすり切れ,血がにじんでいる.
「お姉ちゃん……大丈夫?」
心配そうな顔で男の子がのぞき込む.
「大丈夫だよ,これぐらい.このくらいで泣いてちゃ恥ずかしいよ. それより,どうしてあんなところで立ってたりしたの?」
男の子は急に寂しそうな目をした.涙が目にたまっている.
「僕……明日引っ越すんだ」
「引っ越し?」
「そう,遠い街に引っ越すの」
ぽつりと言って,地面に落ちていた石ころをけ飛ばす.
「そっか……仲良しのお友達と会えなくなるんだね」
見晴はなだめるような口調で言った.男の子を再び公園に連れ,ベンチ に座らせる.見晴はその男の子のことが気がかりだった.自分の置かれ ている状況よりも……なぜか.
「ユタカとか,マリちゃんとかいっぱい友達いるのに,お別れしてきな さいってママがいうんだ……どうしてなの? どうして引っ越しなんか するの?」
「そのふたりとは,お友達なんでしょう?」
見晴は男の子がうなずくのを確認してから,
「じゃあ,遠く離れてもお友達だよね.引っ越ししても,ちょっとだけ 長い間,会えないだけだよ.だからちょっとの間だけ,お別れして,次 また会えるまで友達でいてね,ってお友達に言ってあげるのが,いいん じゃないかな?」
「次っていつ?」
「ちょっとの間だよ.でも,君がもしパパやママの言いつけを聞かなか ったり,さっきみたいに他の人に迷惑をかけたりしたらどんどん会えな い時間がながくなっちゃうよ.でも,きちんといい子にしてたら,次に 会える日なんてすぐにくるんだから」
見晴はそういいながら男の子の頭をなでていた.このくらいの年頃で, 仲のいい友達と離れ引っ越しをするというのは,両親にとっても苦渋の 選択だったのだろう.だが,きっと子供はすぐに新しい生活に慣れる. そこで新しい友達を作ればいいのだ,と思った.
親友や恋人は,もっと大人になってからでも間に合うよ.見晴は心の中 でそう付け加えた.
それでも,別れはつらい.男の子の目に再び涙が光る.
「こら,君は男の子でしょう? だったら,ちょっと友達に会えないく らいで泣いちゃだめだよ.私だって,さっき怪我したとき泣かなかった でしょう?」
「……泣いてなんかないやい」
「よろしい」
そういって見晴はにっこりほほえんだ.もう一度頭をくしゃくしゃっと なでてやる.世界が変わるのは怖いことだもん,と見晴は思った.それ を予告されるほうが,不安は大きい.急に起こった私の方が逆に幸せな のかもしれない.
「お姉ちゃん,名前はなんて言うの?」
「え?」
「僕,みんなからは『なお』って呼ばれてるんだ.お姉ちゃんは?」
「私……『みはる』だよ」
「じゃあ,僕はもっと大きくなったらみはるお姉ちゃんと結婚するこ とに決めたよ.だから,引っ越しても,絶対忘れないでね.決めたん だから……忘れちゃ嫌だよ……」
涙声.必死で涙をこらえている男の子.泣いたら怒られる.そう思っ て我慢しているのだろう.見晴は優しく言った.
「わかったよ.もっと大きくなって,いっぱい勉強していっぱい遊ん で,いっぱい私にその話をしてね.見晴お姉ちゃんも待っててあげる から.だから,なお君のこと,忘れないよ」
「みはるお姉ちゃん……」
なおと名乗った男の子はこらえきれず,見晴の膝の上で,泣いた.今 度は見晴も何も言わなかった.ただ黙って,頭をなでてやるだけだっ た.
学校のチャイムが聞こえる.時計を見ると午後5時30分を差している.
「なお君,そろそろおうちに帰る時間だよ」
「うん……」
男の子はのろのろと起きあがった.涙のあとがほほにつたっている. 見晴は生乾きのハンカチでかるくそれをふき取ってやる.そしてぽん と男の子の背中をたたいた.
「さあ,パパとママが待ってるよ」
「うん……さよなら,見晴お姉ちゃん」
「またきっと,会おうね」
「絶対約束だよ,みはるお姉ちゃん!」
男の子は何度も見晴の方を振り向き,手を振った.見晴もそれに答え てベンチから立ち上がり,見えなくなるまで何度も何度も手を振って いた.

再び,ひとり.
夜の寒さが体を冷やし始めた.乾ききっていない制服を通して冷気が 伝わってくる.日も落ち,すでにあたりは夕闇から夜の闇に変わろう という時間であった.
これからどうしよう……見晴は寒さに凍えながら,そればかり考えは じめた.場所も時間も違う世界でひとり凍えて死ぬなんて,悲しすぎ る.だれも私のことを知らない……いや,違う.
ふいに心の中に暖かいものが宿った.
なお君は私のことを知っている.私はひとりじゃない.すぐに忘れて しまうかも知れないけど,今このとき私はひとりじゃない.ひとりで ないことが,こんなに心温まることだったなんて,今まで気づきもし なかった…….
小さな友情の灯火.今までひとりの男の子ばかりを追いかけ,それし か見えなかった自分が恥ずかしかった.気づかないうちにたくさんの 友達を傷つけていたのかもしれない.恋する気持ちも重要.でも,そ のために私は何を犠牲にしてしまったのだろう?
いや……間に合ったのかも知れない.今友情という気持ちの大きさを 知った.今まではあやふやだった友情もきっと取り戻せる.きっと. そのためには,ここから帰らなければ.
その瞬間,聞き慣れた声が背後からかかった.
「館林……さん?」
「え?……もしかして,紐緒さん!?」
「よかった……間に合ったわ.今すぐ帰るわよ」
白衣の中にいくつかのセンサを抱えた結奈はほっとした表情を隠せな い.腕を引いて見晴をせき立てる.
「ちょっとそんなにあわてないでよ」
「そういうわけにはいかないわ.早く来なさい」
全力疾走する結奈と見晴.訳もわからず駆け出した見晴に対し,結奈 はセンサを見ながら的確にある場所へと走っている.どこへ行くの, と尋ねようとした瞬間,再び落下感覚が見晴を襲った.

不意に視界が明るくなった.
雨が降っている.時刻は夕方頃,だろうか.
「間に合ったわ……」
「紐緒さん,私を助けに来てくれたの?」
「結果的にはそうなるわね.だけど,私はあなたのためにあなたを助 けたわけではないわ」
「え……?」
「タイム・パラドックスと言えばわかるかしら? たとえばあなたが 今いた過去の世界でなにか誤った行動,たとえば「平成」と書かれた 硬貨を使ったりあなたの親を殺したり……この世界が過去の世界に対 しリカバーできない誤りを植えてしまった場合,世界は矛盾を抱え, 最終的にはその矛盾を消すために完全消滅する.それが「秩序」を守 るために発生する最終段階の事象」
「SFみたいね」
「あなたはそれを現実に体験したのよ……私もだけど.いい経験にな ったわ.それより,あなた過去の世界に干渉しなかったわね?」
「干渉……した,かもしれない」
「何ですって!?」
結奈は声を荒げた.
「トラックに轢かれそうになった男の子を助けた……」
「どうしてそんなことを!」
「だって,そのままだったら男の子が死んじゃうじゃない! そんな の見過ごせないよ!」
「見過ごせないで済む問題だったら私も何も言わないわ.いい?これ はこの宇宙すべてに関する重要な問題なのよ.あなたの気持ちはわか るけど,そのことがすべてに矛盾を来しはじめれば,この宇宙は滅び るのよ」
「そんなこと言われても……」
「……まあ,もう遅いわ,どちらにしても」
結奈は恐怖心のかけらさえ見せずつぶやいた.
「今の時点で我々は実際にいるんだから,宇宙が滅びる可能性はそれ ほど高くないわ.滅びるにせよしないにせよ,もう歴史は動き始めた. 私たちは黙って見守るしかないようね.世界は矛盾をリカバーするの かどうか」
見晴は何も言わずただうなずいた.

卒業式.
世界は滅びなかった.まるで全てが夢の世界だった.過去にゆき現代 に戻り,世界の終末を見るかも知れない.信じられなかったし,信じ ても仕方がない.もう,全て終わったから.
そんなへんてこりんな夢の中で学んだ,友情の温かさ.今日はここに いるけど,明後日出発の卒業旅行には行こう.3年間置き忘れた友達と の関係を,もう一度取り戻そう.ちょっとつらいかも知れないけど, 友達は大事だから.
でも,今日だけは……
「あっ,君は……」
彼が来た.見晴は今考えていたことを頭の奥に押し込んだ.
「いきなり,こんなところに呼び出したりしてごめんなさい」
「館林……見晴ちゃん,だよね」
「えっ?」
見晴は飛び上がらんばかりに驚いた.
「どうして,私の名前知ってるの?」
「ずっと,気になっていたから.君と初めて廊下で出会ったとき,俺 何か不思議な運命みたいなものを感じたんだ.まるで昔から,約束し ていたような気がする.だから,調べたんだ.君のこと」
運命を感じていたのは私のほう,と見晴は思った.ひとめぼれをした のが3年前.それからずっと,彼のことばかり考えていた.必ずふり 向いてくれるという,不思議な自信があった.
その自信は,どこから来ていたんだろう?
「昔,俺がまだこの街に越してくる前,結婚の約束をしたことがある んだ.もちろん,まだ俺が3歳の時だからまじめな話じゃないけど,そ の時の俺は,結構本気だった.相手はもうどんな顔でなんて名前だっ たか忘れたけど……君を見て,突然そのことを思い出した.どうして だかわからないけど,あの頃の想い出がいっぱい浮かび上がってきた」
見晴は彼の顔を見つめて黙ってしまった.どこかで見たような瞳.
「俺に言ってくれたんだ,友達は大事にしろって.今は会えなくなる けどまたすぐに会えるからってね.かっこいい女の人だと思ってた. 車に轢かれかけた俺を助けてくれたし……思い出したってことは,そ の女の人は君によく似てたのかな」
「えっ……!?」
見晴はどきりとした.あの純粋な男の子の瞳が,目の前の彼に重なる. あの頃と顔形はやや変わっていても,瞳の光は変わらない.間違いな い.ついこの間のことなのに,急に懐かしさがこみ上げる.彼はずっ と,ずっと私のこと,覚えていてくれたんだ…….
「変な奴だな,俺.何話してるんだろう……」
「なお君……!」
押さえきれず,見晴は彼の胸に泣きついた.

「約束したもんね,なお君……想い出話,してくれるって……」

『絶対約束だよ,みはるお姉ちゃん!』


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