タイトル未定

窓の外は,グレイと白が支配していた.
雪を見るのは,初めてではない.彼女の生まれた村にも雪は降った…だが, ごうごうと風音を轟かせながら吹き付ける雪の礫は,初めてだった.ジュリエール は分厚い毛皮の襟を立てた.
「なんだい,あんたそんな軽装でさ.冬山はそんな甘くないよ.ほら,とに かくこれでも飲んで.そのままだと凍えるよ」
困り顔の女将が,彼女の前に白い湯気を立てたマグを置いた.白い陶器の マグは,雪の白さにも負けない白さのスープで満たされている.彼女は両手で そのマグを抱えたが,視線は未だ,ガラス越しの窓の外に向いていた.女将は 困り顔をやや落ち着かせて,カウンターを挟んで彼女の向いに立ち尽くして いる.
こんなところに,縁なんかないと思っていた….
両手をただ温めながら,ジュリエールは思った.
ソフィア聖堂から,稀代の大魔術師ディオシェリルの手によって秘宝が 奪われてからすでに二月を数えていた.
いや,奪われたというのは正確ではない. 秘宝は自らの手で散らばった,というほうが正しいだろう.そもそも,この大陸 ---この世界の人々は,自分の世界のことを,ただ「大陸(ウルフレンド)」とだけ 呼んでいる---の中央にそびえるブルガンディ山の麓にあったソフィア大聖堂は, その七つの秘宝により,この大陸に安定と豊饒をもたらしていた.それら秘宝は, ソフィア聖騎士団と呼ばれる,厳しい試練に耐えぬいた七人の女性騎士によって, 厳重に守られていた.
そのうちのひとつが,祭壇から奪われたのである.秘宝はそのうちのいず れか一つでも欠けた時,残る秘宝だけでは自らが放出していた魔力を支え切れな くなり,逆流して来た魔力によってこの大陸のどこかへ転送されてしまうのだ. あるいは,同時に全てが奪われぬようそのように設計された,とも言われる. 奪われた秘宝は,聖騎士の中でも一目置かれていた,ルビーの騎士カサンドラの 守るルビーだった.
カサンドラさえもうすこししっかりしていれば.ジュリエールはその言葉を 打ち消すように頭を左右に振った.カサンドラを責めても仕方がないのだ.責める べきなのは秘宝を盗んだ闇の魔術師ディオシェリル.しかし今は復讐よりも優先さ せるべきことがある.闇の勢力よりも早くそしてひとつでも多く,秘宝を取り戻さ なければならない.
すでにルビーとオパールが闇の勢力の手に落ちた.ダイアモンドは光の勢力 が守った.しかし,残る秘宝であるサファイア・エメラルド・黒真珠・猫目石はま だどこかに眠っている.ジュリエールの使命は,自らが守護する「黒真珠」を 求めることだった.
そして,その黒真珠は,すでに彼女の目前に迫っていた.彼女ら聖騎士には, その秘宝が発するエネルギーを感じる力が備わっている.逆に,その力が備わって いない限り聖騎士にはなれない.その力が指し示す場所までは,もう遠くない. 単身,ジュリエールは真冬の山に乗り込んだのである.
十分な装備はしたつもりだった.しかし,冬の山は恐ろしいほど気候の変化が 目まぐるしかった.そして,想像よりもはるかに厳しい世界だった.零下十数度の 中を道もわからず,重い荷物を背負いながらただ黒真珠の導く方角に黙々と歩き 続けていた.間断無く降り注ぐ雪の礫は彼女の頬を傷つけんばかりに叩き,彼女の 足跡はあっと言う間に消えていく.深く雪を踏みしめる足からは,すでに感覚が 喪われていた.そして…
扉の前で倒れていた,という.
思い出したように,スープを飲む.まだ,冷めてはいなかった.
暖炉から薪のはぜる音がする.
こんなところ,来るはずじゃなかったのに….
彼女は,海の見える村に生まれた.何の変哲もない,小さな漁村.豊かでは なかったが,満ちたりていた.三歳で海と遊ぶことを覚えた.魚と泳ぎ,日の光を からだいっぱいに浴びた.父は漁師で,兄がいた.兄は彼女が海と遊ぶころには, すでに船を操り,父と生活を守っていた.母はすでにいなかった.彼女を産むと 間もなく病で死んだ.だからジュリエールに,母の想い出はない.だが,それを 補ってあまりあるほど,父と兄の想い出でいっぱいだった.水平線いっぱいに沈む 夕日を眺めては感動していた.兄に連れ出され,イルカの跳ねるのを見せてもらっ たこともある.鮫に追われた彼女を守るため,モリ一本で鮫を仕止めた父の勇姿は, 未だに彼女の胸にあった.
彼女には,海の声が聞こえた.荒れる時は荒々しく畏怖すべき響きを帯びて. 凪ぐときはおだやかな,囁き声のように.はじめは,みんな聞こえていると思って いた.海が荒れると教えてくれた時には父も兄も漁に出なかったし,そうでないと きは彼女を連れてさえ漁に出た.あの日を除けば.
泣きだしそうなぐらい,止めた.だが,父も兄も聞き入れなかった.その年 は不漁気味で,多少の無理を冒してでも,漁に出るべきだという判断だった. 彼女は家にひとりっきりで置いておかれた.
そして,今もひとりきりである.
「どんな事情があるか知らないけどさ,」女将がひとりごちたのに気づいて, ジュリエールは顔をあげた.おそらく彼女に話しかけているのだろう…そもそも, この酒場兼食堂には,彼女と女将のふたりしかいない.
「ひとりで来たからにはよほどの事情だったんだろう…あんた,海岸 の生まれだね.その肌の焼け方は,雪灼けじゃなさそうだ」
ジュリエールは答えず,女将の方を見ることさえしなかった.
海を憎むのは,お門違いだという程度の分別は,すでにそのころの彼女には 備わっていた.しかし,止められなかった自分を責めても詮ないというところまで 彼女は冷静でもなかった.彼女はそれから半年あまりも,海を眺めては渇れない涙 を流し続けていた.海は彼女に悲しみの歌と勇気づけの歌をうたった,その歌は しかし,彼女の心を開く役には立たなかった.
それが,数年前.それから聖騎士になるまでにはいろいろと苦難があったが, それらなどこのころの彼女の苦しみに比べると,なんでもなかったと言っていい. そして,今彼女はここにいる.
「…明日には晴れると思うから,今日は眠っておゆき.どうせ止めても無駄 だろうから,明日までにはもうすこしまともな装備を用意しておいてあげるよ. その恰好じゃ,裸とかわらない」
彼女は黙って頷き,同意を示した.

女将の言う通り,窓から差す朝日がまぶしく部屋を照らした.真白な雪に反射 した太陽の光が,夏の日差しにも増してあたりを光の色に染めている.ジュリエール は黒く厚い皮鎧と,それに倍する厚さの毛皮を着込んだ.暖炉にくすぶっていた炎 は,すでにない.彼女は部屋を出た.
昨日の食堂には,女将の他に人の姿がひとつ.
父さま…? いや.ジュリエールはかぶりを振った.女将よりもまだ十ばかり 齢を経ているだろう,険しく皺の刻まれた表情は山男のそれであった.灰色の濃い 髭も,あまり高くない背も,ごついという形容がぴたりとくる身体も,彼女の記憶 にある父親とは似ても似つかない.
「あんた一人じゃ,とてもこの山を歩き回るなんてできやしないと思ってね. あたしの知合いの中じゃ,この山に一番詳しい男さ.ひとりでいるより何かと心 強かろうと思っ…」
お構いなく.ジュリエールは女将が最後まで言い終らぬうちに返事を投げ つけた.女将の心配そうな説得に耳を貸すこともなく,荷物を整え,食事を無言で 済ませると,ジュリエールは建物を出た.ぽつりと昨日の礼だけをつぶやいて.
山男はジュリエールを見つめていたが,何も言わなかった.
空は済み渡っていた.黒真珠の波動は,もうさほど遠くない場所に感じる ことができた.半日もせぬうちにたどり着けるだろう.昨日までの雪がやわらかく 降り積もったあとの山道はとても歩きやすい代物ではなかったが,ジュリエールは ほとんど腰まで埋まりながら,無言で歩いていた.
反射的に断った理由は,自分でも気づいていた.
黒真珠を狙う闇の勢力が危険だから,というのももちろんある.野性の動物 ならともかく,敵は魔術や幻覚を操るかもしれない.彼女一人でさえ身を守れる 自信はないというのに,こと戦いの素人を巻き添えにはできない.もちろん, 女将や山男が味方でない可能性も…完全に捨て切れるわけではない.黒真珠のありか のわからない敵がジュリエールに味方を装って近付き,黒真珠を手にする間際に 寝返ることも考えられる.
そんなことが真の理由でないことはわかっていた.
騎士としての誇り,そしてこれまで一人で生きてきたプライドがあの言葉を 吐かせた.これまでそうしてきたように,誰かの施しや手助けなど受けなくとも, 私は一人で生きてみせる.それが私に与えられた試練であり,戦いなのだ.何も 知らない者にこの崇高な試練を汚されたくない.ジュリエールの理性は,それら 「くだらない」誇りを否定する.だが,彼女の胸にわだかまる想いは合理の鎖では 縛れないでいる.そう,私は,一人で,生きている….
何時間経っただろうか.不意に,太陽がかげった.
途端に,世界はジュリエールに牙を剥いた.
女将の用意した毛皮は,それまでジュリエールが身につけていたものとは 比べものにならないくらい暖かく,動きやすいように作られている.しかし, 街の寒さと山の寒さは違う.その毛皮でさえ,彼女の身体は徐々に冷たくなって いくのが感じられた.ものの数分日の光が当たらないだけで,周囲は極寒の灰色 世界に豹変してしまう.
そのかけらさえさっきまで感じられなかった,風が彼女の鼻先をかすめた. 何となく後ろを振り返りたくなる衝動に駆られ,ジュリエールは後ろを向いた. 葉などすっかり落してしまった裸の樹々の間を,汚れた灰色の足跡が彼女の膝元 まで続いていた.その上を,ふいに白いものが舞った.雪だ.
帰りたい! ジュリエールは振り向いた顔を前に戻せないでいた.黒真珠の 波動を間近に感じていながらも,本当に彼女の心を占めていたのは,この灰色の 世界が与える静かな恐怖であった.やわらかく白い面を見せている間には微塵も 感じられない,しかし刻々と忍び寄ってくる冷酷な死神の影であった.しかし, もはや彼女には戻るだけの時間はなかった.
一瞬の逡巡のうちに,もう視界が効かなくなった.あたり一面を舞う白い雪に ほんの十ヤーム先の自分の足跡がはっきりしない.風はまだないが,圧倒的な 白の圧力に,ジュリエールはすでに立ち尽くすしか術を持たなかった.帰りたい, 帰りたい,帰りたい! 背中の荷物の重みが彼女を地面に押しつけた.両手を雪に 突くと肩口まで埋まった.目の前は雪の白一色に染まった.間断無く降り続く 雪が彼女のシルエットを黒から白へとゆっくりと変えてゆく.
そう,海だ.彼女は気づいた.迫り来る白い悪魔の姿を見まいと目を閉じると, そこには海が見えていた.海は,風を遮るものがないため,それだけ陸よりも はるかに強い風が吹く.風は波を呼ぶ.つい今しがた凪いでいた海は,突如荒れ狂う 怪物と化す.それは何も不思議なことではない.海は常に死と隣合わせである. その海と戦い,海と共に,海の恵みで生きることを選んだのが,海の人.海は生活の 場であり,生きる糧であり,人生である.そして山も….
ジュリエールの意識が途切れそうになる瞬間,何者かの腕が彼女を堀りあげた. はっとした彼女が見上げると,そこには今朝小屋で見た,男の顔があった.そして, 彼女の記憶はそこで一旦途切れた.