第1話: キティアの疑問
1。
傍目にも、おかしな取り合わせのテーブルだったに違いない。
最初に座っていたのは、若い娘だった。
若いというより、幼い、というほうがあてはまるかもしれない。短い黒髪は肩までとどいておらず、着ているものはというと、袖や裾の短い目だたない色の普段着であった。このぐらいの年頃の娘であれば必ずといっていいほど身に着けたがる装身具の類は何も身につけていない。ただ、腰に短刀を下げているのだけが、唯一の飾り気であった。
時折、つまらなさそうに周囲の喧騒に目をやって、テーブルに載せられたグラスに口をつけるほかは、何をしているわけでもない。グラスの中の液体は半ばばかりになっていた。
ここは酒場である。この街に巣を持たない、旅人のための酒場。商売や傭兵や探検や、その他の理由で旅をする者たちのための酒場。彼らは偶然集い、その偶然がさも必然であるように互いを賞賛し、語り合い、罵り、喧嘩をして、飲み明かす。
そして明日になれば、昨日の必然など無かったかのように旅立つ。行き先は違うだろうし、そのほとんどが再び出会うこともないし、この酒場に戻ることすらないだろう。それでもなお、旅人は旅人との刹那の触れ合いに心と体を酔わせるため、彼らは酒場に集まるのだ。酒場がこの場に店を構えてから、ここに絶えて人が来なかったことはなかったし、これからもないだろう。
テーブルに影が落ちた。
人差し指で席が空いているかどうかを、先の娘に尋ねる。娘は興味なさげに頷く。
新たに座った人影も女性であった。先の娘より年上のように見える。身体も娘よりひとまわりは大きく、その鍛えられた身体の線がわずかに服の上から伺える。酒場の店員に銀貨を手渡して何かを注文したようだが、喧騒のせいで娘には聞き取れなかった。聞こえていたとしても興味はなかったし、どちらにしてもその答えはこのテーブルにやってくるだろう。
新たに席に着いた女性もまた、娘同様ほとんど装身具らしきものを身に着けていない。亜麻色の長髪を後ろで適当にまとめ、前髪を押さえるための白い髪留めをつけている。この酒場にふさわしい旅姿であった。荷物は彼女の傍らに、古びたナップザックに詰め込まれている。女性の着ている灰色のマントはすっかり着古して擦り切れが目立って、彼女の旅の長さを物語っていた。ここに現れる客は誰しもそうであるわけだが。
そして彼女も腰に剣を帯びていた。これもまた、ここに現れる客は誰しもそうであるわけだが。灰白色に煤けた革の鞘は、収めた剣が男のそれとさほど変わらない長さと重さであることを物語っていた。
赤い液体を満たした瓶がテーブルの中央に置かれる。グラスは二つ。ひとつが娘のほうに押しやられてきた。娘はグラスと瓶を一瞥すると、そのグラスに軽く手をかぶせ、拒否の意思を示した。
「ワインは飲まない?」
「どうして追われているの?」
ワインの瓶に伸ばした手が止まる。
全く噛み合わない言葉を発した娘は、それでもなお興味を失ったままの視線をぼんやりと喧騒に向けている。わたしには関係ない、という表情で。女性は止めた手を再び瓶に伸ばし、自分のグラスにだけ注いだ。安ワインからは、ほんの少し酸い香りがあがった。一瞬しかめ面をした女性は、たった今注いだワインを口に運ばず、その気もなさそうにグラスのふちを指でなでながら、穏やかな声で言った。
「あなたを巻き込む気はなかったのだけど、席がここしかあいてなかったの」
その声色に初めて興味を惹かれたように、娘は女性の方を向いた。
目鼻立ちは整っているほうであろうか。栗色の瞳には、おびえも恐怖もなかった。かといって、流浪の旅人が持つあの独特の寂しげな色合いさえたたえていない。もっと理性的で、あるいは実務的なといったほうがしっくりくるかもしれない表情を見せている。その姿と異なり、この酒場には似合わない顔だ、と娘は思った。背後の喧騒のなかから逐一こちらの様子を伺っている小奇麗な身なりの男たちとも異なる似合わなさである。
喧騒から、どっと笑い声が上がった。
その声に押し出されるように男が一人、テーブルに近づいた。女性の後ろに立つ。
「手荒なマネはしたくねぇ、そいつを寄越しな」
お決まりの台詞だなぁ、と娘は思った。おそらく返事もお決まりなのだろう。とも思った。
「残念だけど、その気はないの。ごめんなさいね」
女性はお決まり通りそう答えて、すっ、と手を男の目前に上げると、何語ともつかぬ不思議な旋律を含んだ語をつぶやいた。瞬間、女性の手が真っ白に燃え上がった。
「うわっ!」
閃光をまともに目前で浴びた男は悲鳴を上げるとふらふらっと後ろへよろめき、たまたまそこを通りかかった酔っ払いたちの一団の中に倒れこんだ。
かなり出来上がっていた屈強なる酔いどれ男たちは、彼らに寄りかかってくる男の行動を宣戦布告と取った。いきなりごつい右腕からの拳固が先の男の左頬にめり込んだかと思うと、男の身の丈ほども吹き飛んだだろうか、哀れな男は床にどうと倒れた。その音に気づいた観客が一瞬の間のあと、割れんばかりの喝采を浴びせた。殴り飛ばした男はというと、右手を不思議そうに見つめながら、この弱さで俺様に喧嘩売ったのかよ、世間知らずな奴だな、と笑っていいのか歓声にこたえるべきなのか困っているようだった。が、おごりだと振舞われたエールのジョッキにすっかり気をよくし、些細な問題はそれっきり忘れてしまった。
今度ばかりは興味を抱かないわけにもいかず、娘は女性の手と腰の剣の両方に目をやった。
魔法戦士…一般に武器をよくする者は魔法のような繊細な技術とは相容れないものであるが、世の中の常のとおり、その両方の才を持つ人間がごく稀に現れる。無論、どちらかで勇名を馳せるだけでも相当の努力が必要であり、その双方で達人になれるものはさらに少数であることは言うまでもない。そういうわけだから、魔法を扱う知識のある戦士が存在することを見たことがない、あるいはそういう者の存在すら信じない者は多い。
床に倒れた男が店員たちの手馴れた手つきで酒場の外に放り出される。再び何事も無かったように喧騒が戻ってきた。
「すごいね、こわがらないわけだ」
「ちょっとした手品(キャントリップ)だけど、実戦ではこの程度でも役に立つものなのよ。ところで、何も食べないの? 私お腹がすいてきたな…」
すぐに料理が届く。なにやら良くわからない香辛料漬けの肉料理に薄いパン。女性が硬貨を出そうとするのを娘が止め、自分の財布から数枚の銀貨を支払う。そして楽しそうに微笑む。
「その手品の見物料にしといて。なんだか面白そうな話をかかえてるみたいね、一口乗る余裕ある?」
「ありがとう、でも大した話じゃないかもしれないわよ。名前を聞いていい?」
「キティア」娘は名乗った。
「私はリューナ。さて、まずは乾杯しましょうか。とはいっても、このワインを飲む気にはなれないけどね」
2。
男たちの姿は消えていた。ノックアウトされた男が酒場を放り出されてすぐにいなくなったようだ。
「確かに腐りはしないだろうけど、これはちょっとやりすぎよね…」リューナが肉料理の皿を見つめてため息混じりに呟き、それからキティアの顔を見あげて続ける。
「町の北門から出て3日ぐらい行ったところにある遺跡の話は聞いたことがある?」
「あるよ。魔法使いの塔だったんでしょ」
「そういわれてるらしいわね」
「ひとりでさらってきたの?」キティアが聞いた。さらう、とは遺跡探索のことを言う。遺跡に棲む獣や怪物が近隣の人々を悩ませる一方で、それらが集めたり放置したりした宝物が彼女たちのような宝物狩人を引き寄せていた。キティアたちが話題にしている遺跡はごく最近発見されたもので、この町へ出入りする馬車を襲う小鬼たちの棲まうところとなっていた。隊商を統括する市場組合では、この遺跡の掃討にいくらかの褒章を出している。
「まさか」リューナは笑う。「で、その遺跡からこんなのが出てきた」
どすん、と腰につけていた小袋から机上に投げ出されたのは、錆ひとつ無い銀の鍵だった。鍵頭部は精巧な人魚の像でできており、多少の傷はあるものの、ちょっとした美術品としてもそれなりの価値があるだろうか。銀貨2、30枚ぐらいの重さはあるようだ。キティアは鍵にちょっと目を向けただけですぐに興味を失ったように肉の皿へ手を伸ばした。華美な装飾に興味は無いし、鍵にできることといえばひとつしかない。
「鍵だけ?」
「扉もよ。扉というより、床下から地下へ通じる入り口のようなものだと思う。地下探索用の装備をしてなかったので、ひとまず戻ってきたの。そうしたらどうやらこの鍵のことが盗み聞きされたらしくてね」リューナはそういって周囲を見回す。彼女らのテーブルに注意を向けている人の姿は見えない。それ以上の説明はいらないでしょう、という表情をキティアに向けた。
キティアは別段不思議そうな顔もせず、「ふうん」とだけ言った。
返事の含みにリューナは意外そうな顔をしたが、それ以上は何も言わなかった。
「で、わたしは乗せてもらえるの?」
「さあて、ね。私はかまわないけど、連れが何て言うかな…来た来た。こっちよ」
リューナが手招きをした。
驚いたことに最初にキティアの目に入ったのは、床に触れそうなほど長い白のスカートだった。こんな荒くれ旅人の酒場にスカート、しかも簡素ながらドレスである。周囲の目を引かないはずはない。案の定、あちこちから口笛や下卑たはやし声が聞こえてきた。その女性はすました表情のまま、まるで何の物音もしていないかのように、外野の歓声を見事なほど完璧に無視して、こちらに歩み寄ってくる。紫水晶のネックレス、細い象牙の腕輪、目立たない銀の指輪にはアクセントの柘榴石が光っている。しかし最も目を引くのは衣装でも装身具でもなく、彼女の尖った耳だった。一点の曇りも無いブロンドをなびかせたエルフ族の娘は彼女たちのテーブルに優雅に腰を下ろした。
「あーもう、疲れた」
第一声は、彼女のエルフ然とした美貌を台無しにしかねない台詞だった。
「リューナ、そのワイン不味いでしょ。ここは白のほうが多少はマシよ。ウェイター、白を瓶で!」
改めてテーブルのほうへ向き、キティアがいることに気づく。人懐こそうな笑顔を見せ、キティアのほうに握手を求めて手を伸ばした。
「こんばんわ、リューナの知り合いね。あたしはロリエーン。よろしく」
「ロリエーン、私は彼女が知り合いだとはまだ言ってないけど」
「じゃあ今から知り合い、ということで」
ロリエーンはリューナの台詞にあっさりと答え、握手を交わしたその手を口に当てる。
「ふぁあ、町中の店を端から端まで歩き回ったんでもうくたくた。ねえねえ、このなんだかよくわからない黒焦げの塊は食べられるの?」
そう言ってから、ロリエーンはワインを持って背後に控えていた店員に気づいた。むっとした顔をした店員は、あたりまえです、ときっぱり断言して、乱暴にワインの瓶を置いた。ロリエーンは一瞬きょとんとしていたが、すぐに苦笑いの表情をして、いたずらっ子がそうするようにちょこんと舌を出した。愛嬌のある表情だ。キティアはつられて笑った。
「それじゃあ、とにかく乾杯!」とロリエーンが今日2度目の乾杯を宣言する。「さてと、名前を聞いてなかったね。リューナから昨日までの遺跡探索の話は聞いた?」
「わたしはキティア、よろしく。話は一応聞いたよ」頷きながらキティアは名乗る。
「じゃあ問題なしね」ロリエーンが再びあっさりと言う。
キティアはまた、さっきまで感じていた違和感を覚えた。
宝物狩人は、生存確率を伸ばすために仲間を集めることが多い。しかしそれは生存確率を伸ばすためであり、必要以上に仲間を加えると今度は分け前が減るということになる。最悪の場合、宝物分配のもつれによる殺し合いにまで発展することがある、ということもキティアはよく耳にしていた。リューナとロリエーンは既に探索のための障害である怪物を排除してしまっているようなので、これ以上仲間を増やすことは、単に(そして無駄に)分け前を減少させることにしかならない。
あるいは、その地下に地上の小鬼の一群以上の脅威が何かあるのかもしれない。キティアは耳のよさとすばしこさには自信があるし、彼女にそういう軽業の腕があることは、宝物狩人であればキティアの服装を見ればすぐに気づくことでもある。彼女たちがその敏捷性を期待しているのかもしれない。そうであれば、合点がいかなくもないのだが。
「出発は明日の朝。準備は大丈夫、キティア?」ロリエーンの声がキティアの思考に割り込んできた。
「大した荷物ないからいつでも大丈夫」
「たいへんよろしい」ロリエーンはキティアの即答にうんうんとうなずく。気がつくとワインの瓶が半分ばかり空いている。リューナも白ワインはとりあえず飲み物として認めたらしい。皿の上の黒い塊もいつの間にかなくなりつつある。ロリエーンはグラスを左手に持ったまま上機嫌に話しだす。
「わりと資金になったわよ、あのガラクタ。全く、人間族の考えることはさっぱりわからないんだから。虫眼鏡でじーっと眺めたかと思ったら、『気高きエルフ族の娘さん、こいつは結構な出物ですな、これは上代の西方地域によく見られる装飾形態の一種で、あまり見つかっていない銀細工の製法をうんぬんかんぬん…』そんなことあたしに言われても知らないって。あたしにわかってるのは、あのネックレスが美的感覚においていかに破滅的かってことだけよ。それが袋いっぱいの銀貨よ。どう思う?」
「歴史的価値があるのよ、きっと」
「どうだか。胡散臭い歴史の講釈つければ信じる馬鹿貴族様に買わせるためにいろいろ言い訳考えてたら自分にも嘘か真実か区別つかなくなっただけじゃないの?」ロリエーンは笑う。悪気はないのだろうがやや人間族の文化に否定的な立場のようだ。
「そのぐらいにしておきなさい、キティアが困ってるわ」リューナがたしなめた。キティアとしてはロリエーンに賛同したい気分だったのだが。キティアは装飾品そのものに(金銭的価値を除いては)興味がないし、文化史にも興味はないし知識もない。だがユーモアのセンスはわかる。おもしろい亜人間族だ、とキティアは思った。キティアがこれまで出会ってきた亜人間種族は、たいてい高潔そうな、あるいはビジネスライクな、近寄りがたい雰囲気の者が多かったのだが。今日は珍しいことばかりだ。
「さて、そろそろ引き上げましょうか」リューナが最後のワインを自分のグラスに注ぎながら言う。
「宿はどこなの?」
「少なくともここじゃないわ。うるさすぎるもん」ロリエーンが言う。「決めてないの?」
「うん」キティアがいう。そもそもあてなど無かった。
「それじゃ、私たちと来ればいいわ。宿代も割安になるしね」リューナは言う。
キティアは思ったことを口にした。
「そこまでわたしって信用できる?」
リューナとロリエーンは顔を見合わせ、互いにうなずいた。
「私たちの観察眼は信用できるかしら?」
キティアはにっこりとうなずいた。信頼を得るのに時間は必要ないのだ。
3。
夜も更け、既に街路は真っ暗になっている。人通りもない。盛り場こそ夜中まで灯りが絶えることはないが、主要幹線である街の大通りから路地をひとつ曲がると、すぐに夜闇が支配する漆黒の地域に囲まれてしまう。日が昇ると同時に活動をはじめ、日が沈むとすぐに活動をやめ床につくのが、街に住むごく普通の人々の生活である。どんなに大きな市街であっても、この原則は変わらない。
ロリエーンはランプを手に、足元を照らしている。空は満月まであと少し。ロリエーンの他愛も無い話にあいづちを打っていたキティアが、ふと足を止める。表情の変化にリューナもロリエーンも気がついた。
「またか…まいったな」ロリエーンがあきらめ加減に言う。「馬鹿は死ななきゃ直らないのかしらね」
「また?」キティアは辺りを見回しながら聞く。先ほど酒場でリューナを監視していた男たちのようだ。
「いろいろあってね」ロリエーンはランプを下に置く。「まあ、本気で怪我をさせるようなことはないと思うんだけど。馬鹿でも知的生物なわけだし」
「それはどうかしら」リューナは躊躇無く剣を抜き放った。
キティアは周囲の様子を伺った。5人ぐらいだろうか、周囲にぼんやりとした人の姿が見える。完全に囲まれているようだ。こちらが相手に気づいたことは明らかなので、相手が攻撃してくるのは時間の問題である。それでもなお距離をとっているということは、相手には射撃武器があるということである。それにしても…ただの盗賊にしては妙に組織立っている気がキティアにはした。
前触れも無くリューナとロリエーンは駆け出した。キティアがすぐそれに続く。
射撃武器の欠点は、敵味方が混戦になると使えないことと、視界が効かなければ効力が半減することである。したがって、射撃武器に囲まれた場合の最良戦略は、一点突破である。しかしそれならランプを消して視界を減じるべきなのではないか、とキティアは走りながら思った。
ぶぅん、と耳元を矢が走った。
正面からの矢だけは運を天に任せるしかない、というのがこの一点突破の大きな勝負どころだったのだが、その賭けにはどうやら勝ったようだ。直後、派手な金属質の音とともにランプの炎がはじけて燃え上がった。誰の撃った矢かはわからないが、ランプを射抜いたらしい。かなりいい腕の射手がいるのだろう。
視界に男の姿が映った。既に弓を投げ捨てて剣を手にし、逆手に受け流しのための丸盾を持っている。リューナは自分の剣を両手で構えながら男に直進する。剣術に覚えのないキティアにも、これはあまりにも無謀な突撃に見えた(こんな無謀な戦い方でどうしてこれまで生きてこられたのだろう)。男は既に半身に構え、最初の一撃を流してそのまま無防備な背中へ剣をたたきつけようと剣を振り上げた。男は明らかに剣術の訓練を受けている。
『…!』
ロリエーンが耳障りな音節からなる言葉を叫んだ。それに呼応するように、ランプの残骸がくすぶる中から燃えさかる炎が伸び上がり、輝く炎の矢となってリューナの敵の眼前に飛び込んだ。リューナの動きに集中していた男はその炎の矢を真っ向から浴びる。炎は一瞬のうちに衣服に燃え広がり、男は火だるまになった。リューナは偽装だったその構えを解くと、速度を落とさずに男の横を通り過ぎた。二人もその後を続く。リューナとロリエーンの息の合った動きで、三人は一瞬にして囲みを突破した。
「まだ追ってくる?」
「みたいだよ。三人かな」キティアはちらと振り向いてリューナに答える。混乱した足音から人数を聞き分けるのはやさしいことではないが、辺りに物音のない今の状態であれば、聞き間違えることはない。しかし足音は遅れることなくキティア達を追い続けている。
「あたし、走るのは、あの、あんまり、好きじゃ、ないんだけど」ロリエーンがあえぎながら言う。
「なんとかできると思う。次の路地を左に入って」
キティアは肩の荷物袋からロープを取り出して言った。リューナとロリエーンが路地に駆け込む。キティアは曲がる瞬間に一方の建物の陰に転がり込んで身を潜めると同時に、路地の向かいにある建物に向かってロープを投げつけた。ロープの端が階段の手すりに巻きつき、先端の鉤爪が巻きついたロープに食い込む。キティアは低い姿勢で両手をロープにかけると、体重を後ろにかけて力いっぱい引き絞った。
そこへ男たちは一斉に駆け込んでくる。
びしり、とロープが張る。
男たちはロープに足を取られ、一斉にその場に転倒した。
成り行きを見ていたリューナがロープに足を取られて転がった男たちに剣の切先を向ける。キティアも建物の陰から短刀を手にして現れた。男たちは立ち上がる隙を与えてもらえず、その場に凍りついた。
「消えなさい」リューナがぴしゃりと告げた。
ずるずると腰を落とした格好のまま引き下がり、男たちは逃げ出した。そして、女たちもその場から走り去った。
4。
真夜中。
二頭の栗毛馬をひきいて、三人の旅人が外門をくぐった。普段、外敵の侵入を防ぐための門は、怪物たちの活動時間である夜中には開かないが、街門の守衛の懐に転がり込んだいくばくかの銀貨が鍵の代わりとなっていた。旅の荷はすべてリューナの馬が受け持ち、ロリエーンの馬にはキティアが同乗している。馬は夜間行にもめげず、街道を北へと駆けて行く。
彼女たちが街を引き払ったのを知ればすぐにでも追手がかかるだろうが、そのまま宿で一夜を明かす危険を冒すよりは出発を早めたほうがいい。そうリューナたちは判断し、キティアが乗るための三頭目の馬すら揃えないまま出発したのであった。
「この手どうしたの!?」ロリエーンがキティアの手を見て驚きの声をあげた。
キティアの両掌は真っ赤な血で染まっている。男三人の荷重がかかったロープを両手で引き絞っていたため、皮膚が裂けたのだ。逃げている最中は全く痛みに気づかなかったのだが、気がついてみると、痛い。あわててロリエーンが両手でキティアの両手を包み、先ほどの炎のときとは違う、心地よい響きの言葉をやさしく紡ぎ始めた。彼女たちの両手がかすかに光を帯びたかと思うと、痛みはすっかり引いていた。掌を開くと、血はすっかり止まり、傷口もほぼふさがっている。癒しの魔法だ。キティアは存在こそ知っていたが、目にするのもその恩恵を受けるのも初めてのことだった。普通癒しの魔法というと、神の僕とか名乗る神官や僧侶たち(キティアには神官と僧侶の区別はつかなかったが)の能力だと思っていたのだが。
キティアが不思議そうな顔をしたのにロリエーンは気づいた。
「生命の力はそもそも癒しの力を含んでいるの。あたしのできることは、自然な形でそこにある力を、強めたり、弱めたり、少しだけ都合のいいように使わせてもらったりすることなの。自然治癒を少し早めてあげるということが、知らないひとには奇跡に見えるらしいけどね」
「魔法はそもそも奇跡じゃないの?」
「違うわよ」ロリエーンは言った。「というより、あたしの能力は『魔法』じゃありませんから」
「広義の『魔法使い』には、私の使うような狭義の『魔法』あるいは『魔術』を扱ういわゆる『魔術師』、ロリエーンの持つような自然界との交信から力を得る『精霊使い』、神の力を借りて奇跡を行う『聖職者』があるの」リューナがキティアに馬を寄せた。「それぞれが独特の方法と修行から体得する、あるいは学習する、独自の表層を持つの。ただ、その影響を受けた結果は驚くほど似通ったものになることもある。神の力による癒しと、生命力を賦活することによる癒し。魔法語と触媒から生まれる火球と、神の怒りとして召喚される地獄の業火。そもそも、魔法を見破る魔法は、狭義の魔法のみならず、すべての魔法を見破ることができるのだから、似ているのはそれほど不思議なことではないのかもしれないけど」
「精霊使いには、学問魔法の力も神の腕も見えないんだけどね」ロリエーンは狭義の魔法のことを『学問魔法』と呼んだ。「学問魔法は、学べば誰でも使えるのに、奇跡は神にすがれば誰でも得られるのに、精霊使いだけは生得の能力がないといけないというのは、どうも理屈に合わない気がするのよね、あたし。それに、同時に学問魔法も奇跡も精霊との交信もできる人というのを見たことがない、というのも理屈に合わない気がする」
「それは単にそれだけのことを学んでいる暇がないからでしょう?」
「そんなはずないわよ、リューナ」ロリエーンが馬のたてがみをなでながら言う。「魔法剣士は存在するじゃない。人間族でもわれわれでも、頭の容量的には複数の魔法系を学ぶことは不可能じゃないはずでしょ…あ、似たようなことをするための複数の能力を持つ気にならないだけかな、うーん、でも、歴史上にそういう能力者がぜんぜん記録されてないっていうのは、やっぱり納得いかない」
「記録するほうがわかってないからじゃないのかな」キティアが言った。「わたしがロリエーンの魔法…じゃないや、なんだっけ、精霊術?それを奇跡と間違えたのと同じで」
「そうなのかもしれないけど、うーん…」ロリエーンは言葉尻を濁した。三人はそれぞれ物思いに沈む。
キティアには、そのような区別など不要だ、と思った。同じことが複数の方法で出来るのはごく自然なことである。ナイフでも強力な魔剣でもリンゴを切ることはできる。水を汲むのにひしゃくや手桶を必ず使う必要もない。兵士の兜や布袋でも充分だ。水を汲むという用途に使う限りにおいて、手桶と兜に何の差があるだろうか。
「そろそろ詳しく教えてもらえないかな」キティアは沈黙を破った。
ぶるん、と馬が首を振った。
「私たちがこれから見つけに行こうとしているものは、水晶でできた魔法の剣よ」リューナは話し始めた。
現在は廃墟と化している遺跡は過去、強力な魔術師の住居であったといわれている。名前こそ知られていないが、その魔術師が究めた領域は、純エネルギー魔術と呼ばれる分野であった。世界は物質という静的存在と、エネルギーという動的・非物質的存在からなる。エネルギーは物質に作用することで「運動」を生じさせる。運動は単純な移動や熱変化のみならず、物質の態様や位相を変容させることができる。すなわち、人が実際に世界で起こったことは、すべてエネルギーと物質による運動で説明できる。
純エネルギー魔術の分野は、この非物質であるエネルギーを制御することで、本来自然には起こりえない事象、すなわち運動を意図的に操ることを主眼においている。物質と異なりエネルギーには種別がないため、対象とする物質を任意に選ぶことで、その運動による変化にはほぼ無限大の広がりを持たせることができる、汎用性の高い魔術を操ることができるということである。無論、純粋に非物質であるエネルギーを制御することは大変難しく、エネルギーの与え方によって同じ物質であっても変化は異なってしまうため、制御法を会得することは非常に難しいとされる。
名の残らないこの魔術師はその分野の大家ではなかったであろうが、その技術が一般人の、あるいは、一般の魔術師の能力を凌駕していたことは言うまでもない。そして、この地に住んでいた魔術師がその所有物としていたのが(皮肉なことに、魔術師の所有物はその創造者である魔術師よりも有名であった)水晶の剣であった。
水晶の剣は、剣としては役に立たない。水晶は脆く、たとえ魔法による能力付与のない単なる鋼鉄の剣でも簡単に破壊できる。しかしこの水晶の剣は、武器としての性能ではなく、その刀身に計り知れない量のエネルギーを封じているという特徴こそが重要なのであった。そのエネルギーは切先から拡散することのない一本の光芒として照射される。無目的に照射されたこのエネルギーに触れた物質は、不特定方向に高速運動を始める。その結果、触れた物体は物質次元で粉砕され、人の目には消滅してしまう。巨大な物体であればエネルギーの伝達に時間がかかることもあるだろうが、理屈の上ではいかなる物体であってもこの水晶の剣に破壊できないものはない。
恐るべき能力を秘めた剣である。
「水晶の剣は種族間戦争で一度使われたのだけど、その力は想定をはるかに超えていた。たった半日で7つの城を破壊し、消滅した生命は数千とも数万とも言われている。魔術師はその報せを聞くと、すぐに水晶の剣をその手元に帰還させ、塔の地下に封じた」リューナは淡々と、感情を交えずに語る。「そして時代は過ぎ、塔は破壊され、魔術師の領地は森と草原に覆われ、小鬼たちが住まい、剣の所在は忘れ去られていた。そこに私たちが現れた。銀の鍵も地下への扉も、そのままで」
「そんな遺物ともなれば、競争率も高いってこと」ロリエーンが言う。「どこからか情報が漏れて、このか弱き乙女の身には街中でも危険が降りかかり、現在に至るというわけでした。めでたしめでたし」
「その鍵を、欲しがってる奴に売ればよかったんじゃないの?」一通り話が終わったところを見計らってキティアが尋ねる。リューナは首を振った。
「残念ながら、この鍵や水晶の剣に見合う対価を払ってくれるような人はいないわ」
確かにそうだろう。地下にはおそらく、水晶の剣以外にも多くの財宝が眠っていることは想像に難くなく、その財貨の価値は行ってみるまでわかるまい。キティアはそう判断し、一応納得した。
馬は黙って歩みを進める。
5。
夜が白々と明け染める頃、街道の東側に木々が密生している場所が見えた。街道から外れるのは安全な行為ではないし、追手に追いつかれる心配もあるが、このまま昼夜を徹して強行することもできそうにない。そうであれば、休息をきちんと取るのが最も有意義な行動である。一行は街道からそれ、日陰を得られる大きな広葉樹の根元に腰を下ろした。すぐに出発できるよう荷物はそのままに、糧食と水だけを簡単に摂った。
「乾燥パンってどうしてこう同じ味なのかしらね」ロリエーンは不満を口にする。「それに乾果といえば必ず干し葡萄。なんていうか、もう少し工夫できないものなのかしら、飽き飽きしちゃう」
「食べられるだけもありがたいんだから、文句を言わないの」リューナがたしなめる。
「いつまで休憩?」キティアが聞く。
「そうね、仮眠を2時間ぐらい取りたいから…南中時間を少し過ぎたら出発にしましょう。先に私が歩哨に立つから、ロリエーンとキティアは休んでていいわ」
「はーい、おやすみなさぁ、ふわあぁ」大きなあくびをひとつして、うーんと伸びをしたと思うと、ロリエーンは昨日のドレス姿のまま木陰に寝転んだ。瞬きする間に寝息を立て始める。よほど疲れていたのだろうか。あまりの度胸のよさにキティアは苦笑する。キティアは両の掌を見つめ、傷がすっかりふさがっているのを改めて確認すると、木陰に腰を下ろした。久しぶりに馬に揺られていたせいか日が昇っているせいか、すぐには眠れそうにない。
「キティアはこの稼業、長いの?」
リューナは周囲に目を向けたまま聞いた。
「考えたことない」キティアはぼんやりと答える。
「身軽で器用なだけのわたしが生きていこうとしたら、他の選択肢なんかないもん。前の戦役で親もいなくなったし身寄りもないし、学といえば読み書きを孤児院で教わっただけ。街に住んで、職人や農民として生きていくことはできたのかもしれないけど、わたしは自由が欲しかった、のかな」
キティアの言葉はけだるそうに続く。
「街に住むのは街に縛られることだと思ったのが、最初のきっかけだと思う。生活を保障されるかわりに生き方を選ぶ自由を失うことが、街に住むことだと思ったら、なぜかな、たまらなく嫌になった。小間使いで酒場や旅人宿に出入りすることが多くて、そういうところで旅人たちの生活を肌で感じる機会も多かったのも関係あるかもしれない。旅人は孤独で危険だけど、それと引き替えにしても、自分で好きなことができる、という意味の自由は、わたしにとって魅力だったな…」
リューナは黙って聞いている。キティアは眠そうに頭をゆらゆらと前後に揺らしながら話し続ける。
「わたしの知らないどこかに、誰か偉い人がいて、その人に頭を下げて、わたしを生かしてくださいお願いします、なんて気持ちになると、すごく自分がちっぽけな生き物になった気がしたの、かもしれない。森の動物よりも、空の鳥よりもちっぽけな生き物に。そんな檻から飛び出す単純な方法が、わたしには、旅人だったのかな。なんか、もうすこし違う何か、怒りみたいな気持ちもあるんだけど…」
キティアはゆっくりと眠りに落ちた。
リューナは眠るキティアを見つめて、つぶやいた。
「その怒りを感じるなら、私たちはいい仲間になれるはずよ、キティア…」
6。
三人は街道からはずれ、草原の中を歩き出していた。すでに街を後にして2日が過ぎ、3日目も夕刻になっていた。追手を警戒しての強行軍だったため、本来より荷物の増えていた馬にはやや疲労の色が現れている。夜こそ休むことが出来たが、昼間は時折リューナが遠方の山々と太陽を頼りに方角を確かめる以外は、ほとんど休止する間も無かったのである。
疲労は三人にもあったが、こちらはまだそれほどでもない。
草の匂いを連れて、晩春のやや暖かい風が吹き抜ける。草原に入ってから、動物の姿こそほとんど見なかったのだが、ところどころにピンクや黄色の花弁が見え隠れし、あるいは白い綿毛が風に揺られている。その穏やかな風景は今、夕日の朱色にうっすらと染まっていた。ところどころに見える岩が長い影を大地に伸ばしている。近づくと、それは自然に存在する岩ではなく、建物の外壁をなしていた石材であることに気づく。風雨と小さな植物の力強い根に浸食され、施された装飾はすでに見る影もない。
一行は馬を止めた。草原の向こうに、ちらりちらりと大きな生き物の影が見える。
「豹…かな」キティアが目を細めて言った。
「出来るだけ刺激しないように行きましょう。食事の直後だったらいいんだけど、あまり期待できそうにないか…」
三人は馬から下りた。豹を遠巻きにしながら移動する。日暮れは早く、次第に影が濃くなってくる。
「でも不思議じゃない?」ロリエーンが馬をなだめながら言う。「小動物の姿が全然見当たらない。あの豹が蹴散らしたからかもしれないけど、それならどうして豹の獲物になった動物の骨がこのあたりにないのかしら」
「多分、この地域が縄張りに入ったのがつい最近だからでしょうね」リューナは答えた。「これまでこの草原は、小鬼たちが狩りをしていた領域だったはず。豹も小鬼の群れにはかなわないでしょうから、この領域には手出しをしなかったのだと思う。小鬼たちは狩った小動物を棲家に持ち帰って食料にするから、このあたりには骨が散らばらない、ということになるわね。その小鬼たちを私たちが敗走させたから、この領域は動物たちに譲られた」
「なあるほど」
ロリエーンが納得してポンと手を打とうとしたその瞬間、馬が後脚立って恐ろしげにいなないた。
「後ろ!」キティアが叫んだ。
振り返ると、馬に威嚇された黒い影が進行方向を変えて飛び退るのが見えた。先ほどの影ではない。豹は2匹いたのだ。それに呼応するかのように、前方の黒い影がこちらへ走ってくる。前後を挟まれた形になった。馬を必死でロリエーンがなだめる。2頭の馬は今にも恐怖に駆け出しそうである。
「キティア、松明をちょうだい!」
キティアは暴れる馬の背からすばやく荷物を引きずり降ろし、袋の中の松明をリューナに投げ渡した。受け取ったリューナは小さく何かを呟き、松明の灯心に手を触れる。小さな炎がひらめいた。魔法だ。
直後、キティアに向かって影が飛び掛った。背後から現れた豹だ。キティアは半身になって豹の牙をかわす。胸を前足の爪がかすめたが、マントの留め紐を弾き飛ばしただけだった。キティアは自由になったマントを肩から引きはがして両手につかむ。間をおかず、獰猛なうなり声をあげながら再び飛び掛ってきた豹の眼前に、キティアはマントを投げかけた。突然視界を奪われた豹はバランスを崩し、着地に失敗した。足元がふらつく。キティアの手に短剣が光る。しかしキティアは短剣を逆手に持ち替え、剣の柄で豹の頭とおぼしき場所を力いっぱい殴りつけた。
強打の一撃をまともに受けた豹はぎゃっともぐわっともつかぬ悲鳴をあげて、その場にへたり込む。キティアは豹の腹へ力いっぱい蹴りを叩き込む。スピードこそ速いがそれほど体格の大きくなかった豹はかなりの距離まで蹴り飛ばされる。かけられていたマントをやっとのことで引きむしると、その豹はあわてて逃げ出した。
無理に殺すまでもない。
リューナは燃え上がった松明をもう一頭の豹に差し向けて威嚇していた。いかに獰猛な獣であっても、炎には弱い。松明が燃え上がったと同時に飛び掛った豹は、リューナに松明で打ち付けられ、その炎に顔を一部焦がされていた。松明による打撃よりも、焼かれた傷の方が豹に痛みと動揺を与えている。炎は消える様子もなく、次第に暗くなるあたりを照らしながら灼熱の踊りを見せている。豹は戦意を喪失していた。リューナが松明を突き出すと、豹は飛び退がり、そのまま退却していった。再び松明を掲げる間もなく、二頭の豹は視界から消えていった。
むしろ殺そうとするべきではないのだ。死を覚悟した獣や手負いの獣は、無傷のそれらよりはるかに恐るべき暴力を見せるものである。そうなれば、彼女たちとて無傷では済まないだろう。
「お見事。さすが、キティアは身軽ねぇ」感心してロリエーンが言った。ロリエーンのなだめていた馬はまだ耳を倒して警戒の様子を解いていないが、一応の落ち着きを取り戻しており、逃げ出しそうな様子はもうない。
「それだけがとりえだからね」キティアは短剣を腰の鞘に戻した。引き落とした荷物の袋についた泥をパンパンと払うと、改めて馬に乗せた。リューナが松明を持ったまま、空いているほうの手で髪の毛をかき上げながら言った。
「派手に血を流す傷を与えなくて良かった。血の匂いに誘われて他の肉食動物が来るのはいただけないものね」
「無益な殺生はしないに越したことはない、ってね」ロリエーンはそういって笑う。
「日が暮れてきたけど、進むの?」
キティアの問いにリューナはうなずいた。
「あと1時間ほどよ。ついたころには陽の光がちょうど消えてしまうころになるかしら」
ロリエーンは馬にまたがった。松明を受け取ってリューナが荷を担いだ馬に乗る。さらに松明を受け取り、キティアがロリエーンの馬に乗った。馬は歩き出した。西の空に一番星が輝いている。
7。
魔法使いの塔、とは既に名ばかりであった。
ほぼ人の背丈ほどの壁は残されていたが、それは塔の側壁ではなくその外側の塀であった。美しい白色の石でできていたのであろうその外壁も風雨に黒ずみあちこちが崩れ落ち、荒廃した雰囲気を漂わせている。外壁の内側に塔の基部がわずかばかり形を保っているが、その全体像や塔の高さは、周囲に崩れ散らばっている側壁の残り屑から推測するしかない。しかも、その大半は小鬼がこの遺跡に住む際に移動させたのだろう、北の外壁沿いに片付けられ、山と積み上げられてしまっている。
残っている塔の基部のうち、2階の床、すなわち1階の天井部分が残っている部分は、もともとの塔の床面積の半分にも満たない。その天井でさえ、松明を掲げると穴があちこちに穿たれているのが見て取れる。残る部分は膝まであるいは胸までの高さの内壁の跡でのみ、部屋の構造がわかるばかりである。扉はひとつも残されていない。あちらこちらに、小鬼たちの使っていたボロ屑のような毛皮や、小動物の骨、火を使った跡があり、数箇所には剣で裂かれるか焼け死ぬかした小鬼の死体が転がっている。
「床は完全に残ってるんだね」キティアが言った。
「天井が降っても抜けなかったんだから、よっぽど頑丈に作られていたってこと。これだけがっちりしていると、普通床下に空洞があるなんて思えないわけなんだけど、ほら、これ」
ロリエーンが屋根のない部屋の床の一箇所を指差した。キティアはランプを近づけながらその場所を覗き込んだ。
砂埃と小鬼の汚物にまみれたそこには、小さな穴がある。傷や浸食によるものではない、人工的な形状である。キティアは短剣の柄で床を強く叩く。ガツ、という石床を叩く音の向こうに、うっすらと反響が聞こえた。
「納得」
「どうする?」リューナが聞いた。ロリエーンは生あくびをしながら答える。
「夜更かしばかりしていたらお肌に悪いの。だからあたしとしては、今夜は休むに1票」
「追手が来るわよ」
「どうせ追いつかれるって」ロリエーンは馬から下ろした荷物をかき回しながら言った。「それに、様子もわからない穴ぐらの中で、疲労を抱えたままの状態で追いつかれるぐらいなら、身を隠すところもあるし逃げるにも安心で、獣たちも近寄ってこないこの状態で一休みしたほうがよっぽどマシだってば。ね、キティアもそう思うでしょ」
「うーん」
「はい決定。それじゃ、食事の支度するね」
リューナの呆れ顔もそのままに、ロリエーンは荷物の中から鍋と木杓子とナイフ、そして乾燥肉や野菜をいそいそと引っ張り出した。手早く食糧を刻む。水筒から水を鍋に移すと、材料を鍋に放り込んだ。いつものことよね、と諦めたリューナはあたりに散らばっていた木切れをかき集めて組み、火を起こす。キティアは立ち上がり、既に夜の闇に包まれている周囲を見回した。灯りの届く距離に動くものの姿はない。ランプを持つと、街道の方角が眺められる部屋に足を向けた。書斎だろうか、壁に棚を組んでいたと思しき跡が残されている。月明かりの他に、街道の方角には何も見えない。耳を澄ましても、はるか遠くで獣や鳥の声が時折聞こえるほかには何も聞こえなかった。
小鬼たちはどこへ行ってしまったのだろうか。全滅してしまったようには見えない。むしろ、小鬼の群れと立ち回りを演じたにしては、死体の数が少ないぐらいである。しかも、姿を見せない獣たちはまだこの建物の主たちがいなくなったことに気づいていない様子なので、死体が食われたとか片付けられたとかいうわけでもないようだ。キティアは改めて、彼女たちがかなりの手練れであることを認識した。宝物狩人の戦いは、いかに効率よく敵となる怪物を無力化するかである。そんな場面では、殲滅は最もおろかな戦術である。戦争とは違い、たくさんの首級を挙げることが、名誉や富にはつながらない。
かといって、戦いを忌避していては元も子もないのだが。
キティアが焚き火の部屋に戻ったときには、スープの香りが部屋をすっかり席捲していた。あの携行食糧からこれだけ食欲をそそる香りがするとはキティアにはにわかに信じられなかった。
「んー、うん、ばっちり。さすがね、あたしって天才」スープの味を確認したロリエーンが自信満々で言う。パンとスープがそれぞれに配られた。スープの味は香りに似合わず丸く、いわゆる香辛料漬けになりがちな保存の聞く食糧からは遠く隔たった味である。キティアの全く知らない味だった。
「おいしい」
「あたりまえでしょ、あたしが作ったんだから」ニコニコしながらロリエーンは言う。「リューナは初め、この味付けが気に入らないってずっと言ってたんだけどね。私の氏族が大事にしている味なんだけど、確かに人間族の料理には使われていない香草を使っているの」
「もう慣れたわ」リューナはパンをかじりながら言った。「それにこういう旅の下では、温かいスープが食べられるだけでもよしとしないとね」
「ねえ、その言い方って非常に遠まわしに『おいしくない』って言われている気がするんだけど」
ロリエーンがふくれ面で口を尖らせる。リューナの微笑みを見る限りにおいては、それほど深刻に味についての一言があるわけではないようだ。キティアはくすくすと笑う。ロリエーンも結局、困ったような苦笑いの表情をすると、思わずふき出してしまう。ロリエーンの笑いは屈託がなく、澄んだ笑い声はあたりに響いた。
簡素な食事を終えると、まずキティアが歩哨に立った。ランプを消し、焚火の炎を小さくすると、暖かい光の支配域はぐっと縮まり、部屋の様子はおぼろげな影にかすむ。冷たい石の床の上に毛布を敷いたかと思うと、二人はすぐに寝息を立て始めた。相当疲れていたのだろう。キティアも例外ではなかったが、この2時間だけは起きていなければならない。小さくなった炎をじっと見つめる。
久しぶりの宝物狩りである。旅に出ると、この言いようのない高揚感と緊張感がある。キティアはそれが好きだ。そして、旅の疲れを癒せる瞬間も好きだ。それらの感覚のためだけに旅に出てもいい。宝物や金銭は生活できるぶんだけあればいい。今回の旅の仲間はとても暖かくて、旅の疲れさえ楽しめそうな心地であった。
しかし、それでもキティアにはまだ妙な違和感がぬぐえなかった。この3日間の旅路を思うかぎり、ロリエーンとリューナは信頼してもいい。しかし、この旅は未だに理解できない。リューナは今回の宝物には買い手がつかないと言ったが、水晶の剣の価値を考えれば、北方で蛮族と戦端を開いている王国軍でさえ喜んで買い付けに来ることも想像に難くない。そうなればおそらく褒章は思いのままだろう。あるいは、実はそのような剣は伝説でしかなく、あるいはこの塔では発見できない、という可能性もある。多くの伝説には尾ひれが付くものであり、そのうち何が真実かはわからない、ということは普通にありうる。
しかしもしそうだとすると、あの夜リューナたちが追われていた理由がない。男たちの多少なりとも訓練を積んだ動きを考えれば、男たちが誰か有力者に仕える兵士か、富豪に雇われた傭兵かであることはおそらく間違いないだろう。とすると、そういう有力者や富豪に、鍵を奪い取らなければならない理由があるのだろうか。リューナたちが水晶の剣を手放さない可能性は確かにある。しかし話のとおりであれば、水晶の剣は一人や二人の旅人の手に負えるようなものではなさそうなのだから、リューナたちがそれを独占するというのは考えにくい。そもそも、リューナやロリエーンに伝説の破壊的被造物(アーティファクト)は全く似合わない気がする。あの小悪魔じみた、子供のように屈託のない笑いをするエルフ娘には特に似合わないだろう。キティアはもやもやした違和感を頭から振り払った。どちらにしても、彼女たち二人を信頼すると決めたのはキティア自身である。その勘は信用できる。リューナやロリエーンがたとえ何を謀っていたとしても、それがキティアを落胆させることはないだろう、そう信じよう。
追手の気配はなく、夜は長い。
8。
日差しがふと顔にあたり、キティアは目覚めた。朝だ。
ロリエーンはすでに荷造りを終えている。荷物は携帯食糧と水の他には、ランプとロープ、松明、ナイフ。美しいクリーム色の弓と矢を背負っている。初めてキティアと出会ったときにつけていた紫水晶のネックレスはそのままだった。スカートであることもかわらないが、それ自体は膝までと短くなっている。そして、簡素ながら美しい装飾を施した革の足甲(スリーブ)を着けている。おどけた雰囲気は微塵もなくなっている。リューナも街道を歩いていた時とは全く違う身支度をしていた。金属の胸板のついた革鎧、いつもの片手半剣、そして丸盾。重装備である。昨日とは全く違う雰囲気に包まれたリューナは、鋭い視線に穏やかな瞳色をたたえ、不思議な冷たさとでも形容できそうな落ち着きを見せていた。後ろ髪が完全に一本に編みこまれている。
キティアはいつもと変わらない。鉤爪のついたロープと火種壷に油瓶、投げナイフが数本といつもの短剣。鎧や盾のような防具の類は、生まれてこの方身に着けたこともなかった。多少丈夫ななめし皮の上衣だけを、危険な旅に出るときの身支度として着けている。
「荷はここに放置してもいいでしょう」リューナが立ち上がった。食事は簡素なものだった。「盗まれて困るようなものはないし、食糧の匂いで動物たちが集まりそうにも思えないし」
「追手のお兄さんたちに進呈つかまつりましょ」ロリエーンが、ふと、いつもの軽口を放った。すぐに真顔に戻る。
「この鍵は魔法的なものじゃないから、たぶん、地下への入り口も機械的に開くと思うの。取っ手はないから、下へ沈むか横へスライドするかということになるわけ。この家の元の主人はまさか自分の住処に罠を仕掛ける変態じゃないわよね、と信じることにして、あたしたちは入り口が開いたらすぐに地下へ降りる。いい?」
リューナとキティアはうなずいた。キティアは手持ちランプに火を灯す。
ロリエーンが鍵を回した。
ず、という重いものどうしが軋る音が聞こえ、床が静かに沈みこむ。掌をいっぱい広げた程の深さに沈んだ床板は、壁の方向へ吸い込まれてゆく。動いた床板の面積は、人ひとりが優に入れるほどではあるが、二人並ぶには狭い、という大きさであった。ちょうど鍵が壁に当たり、ほぼ正方形の穴を開いたところで床板は静止した。
穴の中には、下へと続く階段が伸びている。朝の日光は、穴の奥までは届いていない。
「上出来ね」リューナがつぶやいた。
「物音がぜんぜんしないね」キティアが下を覗き込むようにして言った。罠を警戒しているので、完全に頭を出すのは避けながら。「生き物の気配も、風の流れもない」
「灯りが消えたらすぐに引き返しましょう。キティア、ランプを持って先に行ってくれる?」
キティアはランプをつかんで、灰色の階段に足をかけた。
埃が薄く積もっている。足元の感触はしっかりした石のそれだが、キティアは一段ずつ確認しながら降りる。左右の壁は、荒れ果てた遺跡で散見されたあの白い石で出来ていた。もっとも風雨の影響を全く受けていないこの壁は、ほとんど傷らしい傷もない滑らかな表面を見せている。触れると、土の冷たさが流れてきた。
「キティア、大丈夫?」頭上からロリエーンの心配そうな声が聞こえた。
「今のところ大丈夫、結構下まで遠いよ」キティアは答えて、また一段足を下ろす。白い床が見えてきた。埃の上には全く跡が残っていない。長年放置され、その間いかなる生き物も通らなかったということである。地上から床までは、ほぼキティアの背丈の5倍はあった。下りた階段の先は階段と同じ幅の小さな廊下になっており、真正面に扉がぼんやりと見える。金属の枠が嵌められた、同じ石でできた扉である。ランプの炎の揺らめきにあわせ、枠の装飾でできた影が躍る。キティアは底にたどり着いた。ランプをおろす。ランプの灯りはそのままである。
「下に着いたよ、96段。正面に扉があるだけの狭い通路になってる」
がつ、とキティアの頭の上で音がした。リューナがこの入り口の床板に楔を打ち込んで固定した音だ。
キティアは扉に意識を向けた。金属の枠は飾りというよりも補強のために取り付けられたもののようで、表面には装飾の欠片もなく、その代わりにところどころ錆が浮いている。見た目にもかなり重そうな扉である。鍵穴やのぞき穴はなかった。引き手がついているからには、手前向きに扉は開くのだろう。扉の左側面に蝶番が取り付けられており。その大きさと頑丈さからしても、この扉がかなり重いものであることが伺える。錆びついていそうな気配だが、開閉はなんとかなりそうだ。キティアは耳を扉に当て、じっと聞き耳を立てる。扉の向こうから物音は聞こえない。どちらにせよ、石材の扉に阻まれた反対側の物音が聞き取れるとはとても思えない。
「弓はいらなかったかなぁ、そんな広さなさそうだもんね」ロリエーンがそう言いながら降りてきた。リューナが最後である。辺りをちらちらと見回しながらリューナも狭い通路に立った。
「完全な形で残ってるのね、驚いた」
「それだけ、水晶の剣が残っている可能性も高い、ってことよね」ロリエーンが言う。「単純にこの扉の向こうかな」
「私が力仕事でしょうね、やっぱり」リューナは剣を腰に戻した。
「ロリエーンとキティアは、中がどうなってるか、警戒しておいて。一気に開けるわよ」
キティアは床のランプをロリエーンに手渡した。扉の開く側に寄り、膝を落として低い態勢をとる。そのほぼ真後ろにロリエーンが立つ。扉が開き次第、中が覗き込める位置についた。リューナは取っ手をつかむと、息を止めて両腕にぐっと力を込めた。
扉が重々しい摩擦音を立てて開いてゆく。
ランプの光が部屋に飛び込んだ。
部屋は荒れ果てていた、というのがキティアの第一印象だった。その原因は、木製の戸棚がすべて朽ちて崩れていたことにあった。戸棚には書物や薬品が並んでいたのであろうが、それらもすべて残骸と化していて、足の踏み場もない。残骸のところどころに金や瑠璃色の光が見えるのは、もともとは書物の留金や薬品瓶だったに違いない。左右の白い石壁の一部に丸い真黒な焦げ跡が見えるのは、薬品が爆発した跡のようだ。完全な状態で保存されている薬品瓶は見当たらない。ただ、鼻をつく嫌な臭気だけが消えていなかった。残骸の上には、廊下と同様にうっすらと埃が積もっている。部屋の大きさは地上の遺跡の一部屋よりやや広く、良質な宿の二部屋分は優にある。
奥の壁に扉が見える。その左右には彫像が守るように立ち尽くしている。4本の腕を持つ人の姿をした荒削りな石像である。何かの神様を模したのかもしれないが、キティアには神や宗教の知識はない。双方の像の額に赤く、瞳に青く光る石が配されている。
空気は淀んでいる。動くものの気配は全くない。キティアは部屋に足を踏み入れた。
「あーあ、もったいないなぁ」ロリエーンがため息交じりに言う。「ちゃんと残っていればまさに宝物庫だったのに」
「書庫と貯蔵庫だったようね。私たちが求めるものはここにはないようだけど」リューナが遅れて部屋に入ってきた。床に散らばる木片をひとつ踏みつけると、音もなく木片は粉々になった。キティアは瓶の欠片を踏まないように、奥の扉のほうへと近づいた。
ふっ。
キティアの耳が風を切る音を聞きつけた。反射的に半身をひねり、床に転がりながらその場を飛びのく。
「キティア!?」
がつん、という石がぶつかり合った鈍い音が部屋に響くと同時に、リューナとロリエーンが叫んだ。瓶の欠片がキティアの背中や上腕に突き刺さった感触がする。すばやく立ち上がったキティアの目に、あの4本腕の石像が、さっきまでキティアが立っていた場所を打ちつけている姿が映った。石像が目覚めたのだ。
「魔法の石像だわ」リューナは剣を抜き放ち、盾を構えてキティアの前に立った。石像は、この廃墟と化した部屋を侵入者から守るという、今はもういない主人の空しい命令を未だに守る魔法仕掛けの怪物であった。石像は腕を振るい、リューナの盾を打ち据えた。盾で受け流しているにもかかわらず、その重さと腕力はリューナの腕に響く。リューナは切り返すように剣を石像の肩口に叩きつける。岩石を殴ったような痛みがリューナの右腕から肩にかけて駆け上がる。跳ね飛ばされるようにリューナは数歩後ろへ下がった。殴りつけたリューナが痛みに顔をしかめる。石像の右上腕には傷こそあれ、剣の攻撃はまるで被害を与えていない。石像は剣を避けようとさえしなかった。
リューナが一体の像と対峙する間に、もう一体の石像がキティアに襲い掛かっていた。キティアは軽妙な動きで石像の攻撃を避けている。第一撃は不意をつかれたものの、石像の動きは鈍く、殴りつける動作も単調である。その動きを見切れば回避は難しくない。キティアは鉤のついたロープを取り出すと勢いよく頭上で振り回し、石像に投げかけた。ロープはあっという間に石像に絡みつき、腕を封じた。鉤がロープに食いついたのを見計らって、キティアはロープを強く引いた。
その瞬間、キティアの身体は宙を舞った。ロリエーンの悲鳴が上がる。
石像は急激に後ろへ飛びのいた。ロープでつながれている格好のキティアは、突然の力のためにその場に踏ん張ることもできず、ロープをつかんだまま石像に飛びかかる格好になった。石像は簡単に腕を封印していたロープ引きちぎると、飛んでくるキティアを突き飛ばした。石像の右上腕がキティアが着けていた皮の上着にかかっただけで、幸運にも拳の直撃は避けられたが、皮の上着を剥ぎ取られながら、キティアの身体が今度は真横に弾き飛んだ。壁際に残っていた戸棚の残骸に肩口から突き飛ばされる。とっさに丸く受け身を取ったが、激しい痛みが右肩を襲った。木屑の中をごろごろと1回転半して、キティアの身体は停まった。
ロリエーンの弓が鳴った。矢は石像の胴体を直撃したが、傷ひとつ与えていない。石像がロリエーンの方を向いた。注意がロリエーンに向いたのを見て、キティアは立ち上がった。まだ足は動くようだ。再びロリエーンの弓が鳴る。今度は石像の頭に狙いを定めていた。石像はすばやく左上腕で矢を払いのける。腕に直撃した矢は、先ほどと同じく、石像には全く影響を与えていない。腕にズキリと鈍い痛みが走り、キティアは反射的に顔を背けるようにして痛みをこらえた。その瞬間、リューナの戦っている姿がちらりと見えた。リューナの剣は石像の下腕を容赦なく切りつけ続けていたが、石像は下腕を殴られるままに残る上腕を振り下ろしては、リューナの盾にさえぎられていた。
どうして?
キティアの疑問は、ロリエーンの第3の矢で確信に変わった。ロリエーンの放ったその矢は石像の腰の辺りに過たず命中した。石像は矢傷を受けるどころか、矢を避けることもなく、ロリエーンにじりじりと近づく。ロリエーンはキティアが動ける状態になっているのに気づいていないのだろう、石像の気をキティアからそらせるためだけの、被害を与えることのない第4の矢を弓につがえていた。キティアは石像の背後に忍び寄る。その矢が放たれるその時。キティアは機を逃さなかった。
キティアは全力で石像に飛びついた。石像の首に自由に動く左腕を巻きつける。石像の拳がキティアの頭上に振り上げられるのもかまわず、傷を負った右腕に握られた短剣が、石像の額に光っている赤い石を打ち付けた。びしり、と鋭い音がして、赤い石が額から剥がれ落ちる。振り上げられていた石像の腕が振り下ろされる。それは、キティアの髪に触れたところで、ぴたりと止まる。風圧が髪をゆする。キティアは叫んだ。
「額の宝石を壊して!」
リューナがその声に反応し、盾を投げ捨てた。それまで縦横に振るっていた剣を突きの構えに切り替える。4本の腕が次の攻撃に対峙しようとした一瞬に、リューナは右腕を突き出して額の石を叩き割った。がらん、と盾が床に落ちる。石像は重心を失い、リューナのほうに倒れかかってきた。リューナは身をかわし、石像は硬質な激突音を響かせて床に崩れ落ちたきり、動かなくなった。
ロリエーンが大きく安堵のため息を漏らした。リューナの荒い呼吸とは対照的だった。
キティアが石像と化した石像から飛び降りた。右肩からかなりまとまった出血があるようだ。寒気がして、足元がふらついた。ロリエーンはキティアのそんな状態に気づき、弓を投げ捨ててあわててキティアに駆け寄った。そっと肩の傷を見る。服がかなりひどく裂けていて、血で光る瑠璃瓶の欠片が肩に突き立っている。ロリエーンはその破片を抜き取ると傷を水で流し、魔法の力を注いだ。しかし、大きな傷をすばやく完治させることは出来ない。出血を止めただけで、ロリエーンは彼女のかばんから白い布を取り出し、キティアの肩を覆った。その間、ロリエーンは無言だった。ぐるぐると傷口に布を巻きつけると、ぽん、と軽く叩いた。
「はい、おしまい。かなり出血してるから、しばらくは辛いかもしれないけど、とりあえず骨や筋が痛んでなくてホントよかった」
肩口の傷が熱を持ってきたようにキティアには感じられた。だが、耐えられないほどではない。キティアはロリエーンに大丈夫だよとうなずいて見せた。リューナが息を整えながらやってきた。剣を杖のように地面について、キティアの顔を覗き込む。キティアはそのときまで、自分がうつむいていたことに気づかなかった。
「休息が必要ね。ひとまず日の光を浴びに行きましょう」リューナは地面に放置されていたランプをつかみ上げ、たった今降りてきたばかりの階段に向かった。
9。
「でも、どうしてあの石が像を動かしている原動力だってわかったの?」
キティアが床から起き上がったところでロリエーンが聞いた。眠っていたのは十数分のことだったが、ずいぶん楽になった気がする。傷口は小さな疼きを感じさせたが、火照りも寒気も消えている。
「確かにあたしも一度、あの石が怪しいと思って矢を撃ったけど、当たらなかったのよね」
「違う」キティアは小さく言った
「え?」
「あの矢は石に当たってた。でも、払いのけられたんだよ」
「結局当たってないじゃない。同じことじゃないの?」ロリエーンが不思議そうに言う。
「払いのけた矢は、あれだけだった」キティアは思い返すように言った。「ロリエーンの他の矢は、リューナの剣でさえ、全然よけようともしなかったのに、あの矢だけ払いのけてたの。どうしてかな、と思った」
リューナが見回りから戻ってきた。
「そういうことか」キティアの最後の台詞は聞こえていたようだ。その後を引き取ってリューナは答えた。
「なぜその矢に対してだけ、石像が回避をしたか。それは、石像の致命的な部分に対する攻撃だから、というわけね。そして、その矢の延長線上にあったのは、額の石だった」
キティアはうなずいた。
「あたしの矢はともかくとして、リューナの太刀筋まで全部見てたの?」ロリエーンが驚き、そしてすっかり感心したように言った。「信じらんない。キティアって実はすごい洞察力の持ち主だったのねぇ。参りました」
「あのままだと、私たちは全滅だったわ。キティアには感謝しても足りないぐらいよ、ありがとう」
「ちらっと見えただけだって、大げさだよ」キティアは照れ笑いを隠すように、まぶしそうに太陽を見上げた。太陽はまだ、午前の日差しを投げかけていた。雲の姿はほとんどない。
「さて、動けるなら探索の続きといきましょう」リューナが立ち上がった。
階下の部屋に戻る。先ほどの戦いの緊張感が戻ってきた。三人は周囲の木屑と破片の山には目もやらず、石像を避けて歩くと、彼らが守護していた扉にたどり着いた。扉は小さく、人一人がかろうじて入れる大きさである。金属の扉のようだが、材質はキティアの知らないものであった。部屋の入り口と同じく、まるで飾り気がない。
「ここのご主人は、室内装飾のセンスもないのね、全く」ロリエーンが嫌悪の表情を見せる。キティアはこの扉を気に入っていた。無駄な飾り気のない、機能性だけを求めた純粋さは、それ自身が美しい。昨日であった豹の持つような、自然に生きる動物たちのしなやかな躍動感に似ているから。キティアは扉にそっと耳を当てる。半ば予想されていたことではあるが、扉の向こうからは何の物音もしない。それでも用心しながら、キティアは取手に手をかけた。
拍子抜けしそうなほどの軽さだった。扉は音もなくすっと開く。
扉の奥は小さな部屋であった。ロリエーンがランプをかざす。書斎によくある小さな石の書き物机に、この部屋の主が干からびて骨になってもなお、机に顔を伏せたまま椅子に座っていた。何かを書き付けながら死んだのだろうか、もはや読むことすらままならないインクのかすれが浮いている黄ばんだ紙とインク瓶、紙の重し代わりに銀の短刀だけが、机の上に置かれているもののすべてであった。見るべきものもないほどぼろぼろになっている彼の服は、豪奢な紫だった。金糸の跡があちこちに残っている。威容をたたえてはいるが廃墟でしかないこの塔の在り様と瓜二つだ、とキティアは思った。
炭と灰ばかりが詰まっている奥の暖炉には、ろうそくのない黄金の燭台が置かれている。その横にはきちんと栓をして並べられている瓶が並ぶ。静穏な状態で保存されていたためか、赤紫色の液体はまだ蒸発していない。壁には大きな織物が掛けられている。色はあせているものの、赤と黒を主体として織り成された戦乱と殺戮の子は、その邪悪な生々しさを保って余りある。書き物机の反対側の壁には、がっしりとした黒いつやのある石材でできた整理棚がしつらえてあり、その上に、ランプの光を反射してきらきらと光る棒状のものがあった。
剣、というよりも、投槍のようであった。リューナは静かに水晶の剣を手に取った。
リューナの腕の長さほどの細長い円錐の底にあたる箇所に、両拳の幅ほどの一回り細い円柱がくっついた形だった。半透明の材質で、ぼんやりと青白い反射光を投げかけている。柄の台尻には、完全な球形をしたうっすらと桃色に光るちいさな水晶球が付いている。
「突然どかん、といったりしないでしょうね?」ロリエーンがおそるおそるたずねる。リューナは笑った。
「この類の品物は、必ず発動のための言葉が必要だから、その言葉を言わない限りは大丈夫よ」
「知ってるの?」キティアが聞く。
「まさか。文献を調査したり、この剣が持つ魔法を分析すれば、わかるでしょうけどね」
「知りたくもないわ」ロリエーンが吐き捨てた。
「我々はぜひ知りたいがね、お嬢さん方」
背後から男の声がした。三人は驚いて振り返る。
背の高い男が立っていた。長剣を腰に下げ、リューナのそれと似た金属の胸当てをつけている。その右胸には、ししをモチーフにした複雑な文様が描かれている。赤茶けた髪を短く切っており、額の傷跡が露になっている。ランプの光が黒い瞳に映っている。それほど巨躯ではないが、鍛えられた腕の筋肉が彼をかなりの手練であることを如実に語っている。男の背後にいくつも人の気配がする。追手が追いついてきたのだ。しかも、完全に退路を断たれたこの瞬間に。
リューナは水晶の剣を手にしたまま、口元だけを微笑ませた。
「第2親衛隊、またの名を黒豹部隊。お会いできて光栄だわ、スタンウェル准将軍閣下」
「これはこれは、私をご存知とは。親衛隊の中にさえ私の顔を知らないものがいるのだが」スタンウェル准将軍閣下、と呼ばれた男はわずかに微笑んだ。
キティアは、その名前に聞き覚えがあった。主に大規模戦闘における遊撃や計略を受け持つ国王直属の部隊。部隊長は家柄のない傭兵あがりでありながらその地位まで登りつめた、知略に富み武芸に長けた切れ者であるという。しかし、その姿を見たことはもちろんなかった。一目見ただけで、その風評を裏打ちして余りある人物であることは明らかだった。何よりも、これだけの重装備で全く気配も物音も感じさせなかったのだ。
「まあ、それならば話は早い。われわれは廃墟にもお嬢さん方の生業にも興味はない、その水晶の剣を除いてはね」
「街中であたしたちを襲うほどご執心でいらしたものね、准将軍閣下」ロリエーンが小ずるそうに微笑んで言う。「少しはあたしたちの能力を考え直していただけたのではありませんこと?」
「否定はすまい」悪びれる風もなくスタンウェルは言った。「その時点ではそれが最良の選択だと思ったのだが、すっかり考え直させていただいたよ」
「どういたしまして」ロリエーンはスカートの裾をつまんで、優雅なお辞儀をして見せた。
「月並みだが、その剣を無償で譲れと言う気はない。われわれ第2親衛隊は、準備できる限りお嬢さん方の望む報酬を出しても良いと思っている…金銭でもよいし、領地でもいい。貴族位でも商業上の特権でも一向に構わない。無論、すべてを拒んでその剣を保有したいと思うのは結構だが、その場合はすべてを失うことになる。財産も友人も、生命も。今度は万全の態勢を敷かせてもらったので、数日前のようにいかないことは、保証させていただくよ」
不思議な沈黙が辺りを支配した。
キティアは、なぜリューナとロリエーンが沈黙しているのか、判断がつかなかった。スタンウェルの背後には、彼の配下の兵士がかなりの数詰めており、この状況から3人が突破する方法はおそらくありえないだろう。スタンウェルはキティアたちに不利な申し出をしているわけではない。考えうる限り最高の報酬を約束しているのだ。もちろん、その約束が反故になる可能性はあるが、その場合はいずれにせよ3人の生命はない。そもそもキティアたちに、水晶の剣を扱う手段がないのに、それを手元に残す理由がないではないか。
「ひとつ尋ねてもよろしいかしら」ロリエーンがスタンウェルを見上げて言う。「准将軍閣下がこの水晶の剣を手に入れられたあかつきには、これをどうされますの?」
「さしあたっては、北方戦役の現状を打開するための秘策として用いることになるだろうか。北方山脈の蛮族との戦争はすでに数ヶ月にわたっているのだが、敵の要塞は堅固であるし、平野育ちのわれわれにとって山越え攻めは非常に苦難を要するせいもあり、成果は芳しくない。膠着状態を解決するためには、何がしかの戦闘を優位に進めるためのものが必要なのだ。それに水晶の剣は打ってつけであり、さる方面からの情報を得て、私がここまでやってきたというわけだ。とはいえ、私個人の意見を言わせてもらえれば」スタンウェルは苦笑いを見せた。「戦略的にも物資的にも旨みのない北方山脈など蛮族にくれてやればよいのだ。もっとなすべきことはあるだろうに、とは思うがね」
スタンウェルは元の表情に戻った。
「それがどうかしたかな、お嬢さん方」
「やっぱり戦争の玩具に使うわけね」ロリエーンが言った。先ほどまでの冗談めかした表情は消えている。
「最悪だわ。戦争で一番ダメージを受けるのは国王様でも将軍様でもなく、実際に戦っている兵士と戦いに巻き込まれた町や村の人々だということぐらい、あんただって知ってるでしょ?」
「争いは人間がいる限り起こるものなのだ。それを速やかに終結させることが、お嬢さんの言う一兵卒や住民たちへの被害を減らすには効果的な方法であり、そのためには、圧倒的な能力差が重要な要員になるのだ。戦いは既に始まっている。そして、それは終わらせなければならんのだよ」
リューナが後を継いだ。キティアがこれまで聞いたことのない、低い声だった。
「生命を奪うことを、大局的安定のために必要だと正当化するのね、あなたも。見えもしない国境線を押しやるために、つかめもしない国家や、あったこともない国王のために、生命を投げ出すことが必要だと。実際に生命をやり取りしている人々にとって何の価値もないもののために、その人々は死ななければならないと言うのね。あなたは、誰にも見えない正義の名の下に、別の見えない正義の名の下にいる人と殺し合っている」
「その見えない正義を失えば存在するのは無法の荒野だけだ。そんな中で生きようとする者は人間ではない」
「そうね」リューナはさびしそうに笑った。
「准将軍閣下、あなたは人間であろうとすることに執着するあまり、この世に生を受けた生き物であることをやめようとしているのよ。国家や組織という構造は個人を数として扱う。だから個々の人そのものを尊重しない。国家のために生命の尊厳を奪い取ることをいとわず、組織のために、人は簡単に殺しあう…」
「だが、人間はもはや独り荒野を行く豹にはなれないのだ」スタンウェルは切り捨てた。
「だけど『私たちは』生命の尊厳を守ることができる」リューナが、打って変わった力強い声で言った。
「私たちは、人々が生命を奪い合うために、人の力をはるかに超えた能力を用いることは、許さない」
一瞬の沈黙の間に、すべては終わっていた。
リューナの手に白銀のきらめきが動いたと同時に、芸術的なまでの破壊音が響いた。薄桃色の柄球が一瞬まばゆい光芒を放ち、完全に消滅した。衝撃とともに無数のナイフと針に変貌した水晶の刀身は、誰もが声を上げる暇もなく、きらきらと澄んだ音とともに床に散らばった。完全に音が消えた後、まだ誰も声を上げなかった。
最初に沈黙を破ったのは、男の笑い声だった。
背後で驚きとも怒りとも嘆きともつかぬ表情をしている彼の部下とは全く対照的に、スタンウェルは本当に心の底から楽しんでいるように笑っていた。そして言った。
「参ったな、どうやらお嬢さん方には今日も完敗のようだ」
スタンウェルの言葉に、リューナは厳しかった表情を緩め、やさしい微笑を見せた。
「それにしても、久々に胸のすく思いだよ」
スタンウェルは笑顔のまま、まるでうれしそうにしか聞こえない声で言った。
「大抵の底の浅い連中であれば、自分の信念を曲げては、言い訳を探して自分を慰めるものだというのに、お嬢さん方は、現実の利益にも死や争いの恐怖にも揺らがずに自分の信念を貫けるのだね。並の意思ではとても出来ないことだよ。お嬢さん方」
「お褒めいただき恐悦至極でございますわ、准将軍閣下」
ロリエーンがあの小悪魔風の微笑みで言う。スタンウェルはうなずいた。
「さて、もう我々にはここにいる理由もないことだし、兵を引くとしようか」
「しかし将軍、こ奴らは…」兵のひとりが言おうとするのをスタンウェルは遮る。
「仕方なかろう。我々が求めていた唯一のものは、目の前で雲散霧消してしまったのだ。いまさらここにいても何もできんよ。お前たちの中には立腹してる者もいるだろうが、我々は無駄に出来る時間も労力もないのだ。第一、お前たちが楽にあしらえる相手でないことを一番良く知っているのは、他ならぬお前たちではないか」
答える者は誰もいなかった。スタンウェルはリューナたちに向き直る。
「では、我々は消えるとしよう。私はお嬢さん方とは違う道を行くが、お嬢さん方はどこまでも自分たちの理想を追い求めるがいい」
「そのために、私たちは旅をしていますから」
リューナの言葉にスタンウェルは笑って答え、振り返ると彼の部下に撤収の号令をかけた。まだ得心の行かない顔をした男たちは、それでも彼の命令に従ってこの狭い部屋を後にする。スタンウェルが最後に部屋を出る間際、一瞬リューナたちのほうを一瞥した。その瞳は第2親衛隊部隊長のそれには似合わない、というよりむしろ、リューナやロリエーンのそれに驚くほど似た光をたたえていたように、キティアには見えた。それがさらに、キティアの混乱に拍車をかけていた。
が、ふと、以前酒場で聞いた噂話を思い出した。
「被造物破壊者(アーティファクト・デストラクタ)…」
古い時代に作られた魔法的な品物を破壊して旅する狂気の旅人がいるという噂話があった。特に能力のある宝物ほどその旅人は破壊しようとするという。旅人たちの正体は魔力を食らって生きている魔物であるとか、過去を滅ぼすことだけを目的とした狂信者集団であるとか、ひどいものになると自らが作成した被造物を他人の手に使われないように破壊している魔術師の成れの果て(一体何歳なのかは誰にもわからない)という話もあった。確実なことは、その単数か複数かさえ知られていない旅人の手によって破壊された魔法的品物が存在する、という事実だけだった。
「そのとおり」
ロリエーンがキティアの呟きに答えた。
「ホント…なの?」
「魔法の品物を食べて生きる竜をつれた推定年齢900歳の魔術師でなくて残念でした」
ロリエーンはそうおどけて笑う。
リューナは古き魔法使いの亡骸を見つめながら、キティアの納得いかない表情に答えた。
「誰がそんな大げさな名前をつけたかは知らないんだけど…人にとっては、過ぎた力を良い方向へ使うより、悪意のある方向へ使うほうがよりやさしいもの。魔法的品物は、その力が強ければそれだけ、使い方を誤ればすぐに破壊や殺戮の道具に使われてしまう。キティアは、その過ぎた力が振りおろされるのが、常に力の弱い人の上にばかりだと思ったことはない?」
「それはふつう『戦争』という名前で呼ばれてるってこと」ロリエーンが後を継いだ。「人が生きていくためには何の足しにもならないじゃない、戦争って。正義のためとか権力が欲しいとかいうくだらない理由のために戦争を始めることに決めた当の本人たちは、安全な城壁の中でたくさんの守衛に守られて、死んでいく名も知られない人たちの血と肉の上にふんぞり返ってるわけでしょ。あたしたちは、そういうのが許せないわけ」
「政治や社会、権力そのものが不要だと思っているわけではないのよ、キティア。ただそれらには本来、こんな過ぎた力は必要ではないはず。そう思うでしょう?」リューナは床に散らばった水晶の欠片に目を移しながら言った。
「でも」キティアは二人を見つめた。「でも、わたしたちだけでどれだけのことができるの?」
「さあて、どうかしら」ロリエーンは微笑みを崩さずに言う。
「キティアは、あたしたちがどこまで行けるか、興味ないの?」
一瞬の逡巡がキティアの胸をかすめ、それはすぐに温かな感覚を伴った確信に取って代わった。
「ある…と思う」
リューナはキティアに右手を差し出した。
「あらためてよろしく、キティア。『被造物破壊者』の一団にようこそ」
キティアはその手を握った。リューナの手は、確信とともに感じた温かさに満ちていた。
街道を三頭の馬が、それぞれ旅姿の女性を乗せて南へ駆けていた。
人影は宝物狩人のそれであった。彼女たちの背には旅の荷物のほかに、いくらかの戦利品があった。ただ、その冒険で見つけた最大の宝物はそこにはなかった。そして、誰の手にも入らないようになっていた。スタンウェルたちの部隊は、キティアたちの馬や荷物に手を触れていなかった。一応、不審なところはないか荷物を一通り調べて、一行は街への帰路についていた。
「でも、わざわざ壊す必要はないような気がするんだけど」馬上で戦利品のひとつである白銀のナイフをいろいろな角度から眺めて調べながら、キティアが聞いた。
「キティアに質問です。ここにすごくおいしいケーキを作る魔法の箱があります。食べるともっともっと欲しくなるほどおいしいケーキが作れます。ただし、このケーキをひとつ作るのに、千食分の小麦や砂糖などの食材を入れる必要があります。さて、キティアはケーキを我慢できますか。あたしは無理」
ロリエーンは即座に自分で答えた。
「すばらしい能力を持っている何かを、必要なときだけ、人のためになることにだけしか絶対に使わないでいるだけの忍耐力を持っている人は、たぶんほとんどいないでしょう。本当に美しい宝石があれば他人に見せて自慢したい、本当にすばらしい音楽があれば他人に聞かせたい、本当にすばらしい切れ味の剣があれば…。でも、そのすばらしい何かを、破壊的行為に使わせる可能性をゼロにできる方法がたったひとつある。それは、その何かをなくしてしまうことというわけなの。言ってみれば、私たちの行動は最悪の事態を防ぐための次善的行為なのかもしれないわ」
「ふうん…リンゴはやっぱりナイフで切れ、ってことか」
キティアはひとりそう呟いた。剣でもナイフの代わりにはなる、だけど、剣にはナイフにできず剣に出来る余計なことができる。その余計な力があまりにも人のためにならないのなら、剣は折ってしまえばいい。水晶の剣がそうなったように。
「ところで、あの剣を壊しちゃったときにリューナの手で光って見えたのは何?」
「ああ、これね」
リューナは胸元から白銀色の鎚を取り出した。戦闘用の鉄鎚を象ったもので、鎚の面が鏡板のように磨かれている以外には、隅々まで手の込んだ目の回りそうなほど細かい装飾が刻まれている。大きさは胸飾り程度で、よく磨かれた白銀の鎖にぶら下がっている。柄の長さは片手で握るにも足りず、実際に鎚として使うことはほとんどできそうにない。
「普通の金鎚じゃないよね?」
リューナはキティアにうなずいた。
「『魔喰い』というおどろおどろしいのがこのかわいい鎚型の首飾りの名前よ。いかなる強力な魔法が付与された品物であっても、その魔力をすべて消滅させてしまうという強力な魔法的被造物で、古い時代から文明と権力を破壊する邪悪な祭器として恐れられ避けられていた、という伝説があるの。そうは言っても、その存在自体が最初から魔法的に安定している場合はダメだけど…例えば、魔法的に浮遊する金属の性質を打ち消すことはできないし、死霊や精霊、悪魔のような存在自体が魔法に依拠している怪物も破壊できない。あくまで魔法的性質を後付けされた場合だけ、魔喰いは魔法を食うことができるの」
キティアの理解に遠く及ばなそうな表情にリューナは微笑む。
「そういうわけで、この鎚を手に入れたときが私たちの旅の始まりの時だった、ということになるかしら」
「その能力からすれば、この鎚そのものだって、あたしたちが破壊して回っている魔法的被造物のひとつになるし、それを壊しもせずに持ち歩いてるというのはあたしたちの旅とまるで矛盾してる、っていうのが面白いと思わない?」
ロリエーンはさもおかしそうに言う。
「ホントだね、なんかおかしな感じ。でも…」
キティアがふと思い出したように言う。
「でも、この金鎚で魔法がなんでも壊せるのなら、どうしてあの地下にいた石像をこれで壊さなかったの?」
リューナとロリエーンは不意を撃たれた表情で顔を見合わせた。そして同時に叫んだ。
「本当だわ!」