Chapter.0
「あれぇ? これなんかおかしいよ」
騒動はキティアの一声から始まった.
城砦都市,ブルーフォックス.男爵領唯一の交易都市である.そもそもこの
男爵領ブルーフォックスは,辺境に存在する.面積も大きくなく,その東方には
未だ人々が足を踏みいれたことのない未開の土地が広がっている.
いや…これは厳密ではない.そもそもここセスティア王国は,彼らが旧帝国と
呼ぶ古い文明のあった地域に広がる王国である.この旧帝国は現在のセスティアなど
遥かに及ばない遠方までも支配下に置いた強大な帝国であったという.その帝国が
長い歴史になぜ終止符を打ったかに関しては,定かなことは言われていない.旧
帝国の遺跡,あるいは廃虚から発見される歴史の書物は,それらの栄華を極めた
時点でぷっつりと記録を終えている.
したがって,先に未開と呼んだ地域にも,旧帝国の遺跡や廃虚が数多く点在
していると言われている.ここブルーフォックスは,その旧帝国の遺物を求めて
集まる学者や冒険家のホームタウンといえた.
そんな中にある小さな宿屋は「ラベンダーの香り亭」という.このラベンダーの
香り亭に,遠方の国から来たと名乗る宝石商人がやってきていた.フードを
目深にかぶった妙に不気味な集団であったが,宝石の方は品揃え良く,特に装飾品に
目が無いロリエーンは,あれやこれやと彼らの取り出す宝石たちに目を奪われていた.
キティアはそんな宝石には興味のないようすであったが,彼女天性の勘がその
宝石をつまみ上げさせた.普通の宝石にしては,いささか軽い気がする.基本的に
立場や周囲の人間関係といったものを意に介さない彼女のこと,感想をただ素直に
述べた.「あれぇ? これなんかおかしいよ」
「どれ,見せてみぃ…ふむ.こりゃガラス玉じゃな」
ドルバが…彼はドワーフと呼ばれる亜人間種族であり,その武骨な姿とは裏腹に
繊細な宝石加工技術を持つ「大地の人」である…つぶやいた.商人の一人が非難の
声を挙げようとする瞬間,ドルバはその宝石を壁に向かって投げつけた.
ガシャン!
宝石は緩やかな放物線を描き,壁面で芸術的な破壊音を響かせた.
「壁にぶつけたぐらいで宝石が砕けると思うか,エルフ娘?」
突然のことで一瞬あっけにとられたロリエーンが,我に返ると商人に食ってかかった.
「ちょっと,いったいどういうことなのっ!? あたしたちに偽物を売りつけよう
ったってそうはいかないんだから.大体,犯罪じゃないの!」
商人は無言であった.表情はフードの下ではっきりわからない.
「こんな汚い方法で乙女の純情を踏みにじって金儲けしようだなんて,虫が
好すぎるわよっ! それより前に,目先の聞く冒険者相手にこんな子供だましが
通用するとでも思ってるの!?」
自分がだまされていたのを棚に上げていつもの剣幕をはりあげる.
瞬間,後ろに控えていた商人がさっと手を突き出すのを,場面を傍観していた
リューナが見とがめた.商人の手には金属のひらめきがある.彼女はすっと立ち
上がり,その商人の腕をひねり上げた.投げナイフである.それを確認したか
しないか,商人たちはフードを跳ね上げ,懐に隠し持っていた短剣を構えた.
ロリエーンが,服の裾を気にしながらも一歩下がる.
「その構え,ただの商人じゃなさそうね…はっ」
捉えていた商人の一人を手刀で気絶させ,リューナは腰の剣の位置を確認した.
もちろん,宿の中で鎧をつけているわけではないので,完全武装というわけには
いかない.剣も旅に出るときのそれではない.
2 対 4.
分が無いと悟ったのだろうか.商人たちは油断無く剣を構えたまま宿の扉を抜け,
かき消すようにいなくなった.商品はその大半が放置されている.
「あ,ありがとう…ございました」
宿の女主人シーリアが言った.主人と呼ばれるにはまだ若く見える.
「礼を言うのは早いわよ」リューナが告げる.同時に,気絶している男の袖を
めくり上げた.ドルバの目が睨むように細くなるのと,ロリエーンの目が丸くなる
のとが好対象だった.キティアは何だろうとばかりにその腕を見つめる.
腕には銀の輪が,鍛え上げられた筋肉に食い込むようにはめられている.美しい
竜を型どった腕輪のその瞳に輝くのは碧石(エメラルド)である.こちらは先の偽物
とは違い,かなりの価値を持つことは明らかであったが,この腕輪には,それ以上の
いわくがある.ブルーフォックスに逗留したる者で,この噂を知らぬ者はない.
「碧眼竜(エメラルドアイ)か.やれやれ,やっかいな奴に喧嘩を売ったものじゃ.」
半ば諦めるようにドルバがつぶやいた.ロリエーンの顔色もいささか冴えない.
「ねえ,そのエメラルドなんとかって何?」
「碧眼竜…ここブルーフォックスの特殊任務ギルドの名前.暗殺者集団でもあり.
影の世界を暗躍する結社よ.その力は表権力を凌ぐとまで言われているの.裏世界の
支配者という感じかしらね」
キティアの無邪気そうな質問にリューナが答えた.
「でも,そんな集団がこんなつまらない詐欺まがいのことをするなんて聞いたこと
がないわ.なんのつもりかしら…」
「さあ,のう.ワシらに怨みがあるとすれば別じゃが,そんな覚えはないしのう.
じゃが,無意味に行動をする連中でもあるまいし,何か下らん勘違いに巻き込まれて
おるのかもしれん.まあ,どちらにせよ時が経てばわかるじゃろう」
ロリエーンはさっきまでの不安もどこへやら,暗殺者たちの残していった装飾品
を惜しそうに眺めている.シーリアが自警団を呼びにいった.ドルバは,もはや
興味はないとばかりに,壁一面に貼られた「傭兵求む」の貼紙に目を走らせていた.
しばらくして,アヤとミティラが帰ってきた.
「うん,大漁だったよ.役に立たない骨董品を売り払っただけだけど,半年は
何もしないで暮らせそうだよ.ついでに町のバザーを回って修理道具買ってきたけど,
これぐらいはいいよね?」
「砥石は買って来てくれたんじゃろうの?」
「はい,彼が持って下さっていますわ」
「ボクはこういう無骨なものには一切興味ないんだけどなぁ.ドルバが買ってこい
って言うから買ってきてあげたんだよ.はぁ,重かった」
ドスン,という音を立てて机の上に荷物が載せられた.保存の効く乾燥食糧や
水筒,ロープなどの必需品に混じり,何の変哲もない石と,細い半透明の糸のような
もの…キタラ,という弦楽器の張り替え弦が入っている.前回の旅の成果の一部は,
ミティラの巾着の中に宝石に形を変えて納められていた.何の利用価値もない骨董品
たちがお金に化けるのだから,古物商の考えていることはさっぱりわからない,と
アヤは時々思う.
「で,ツカサは?」
ロリエーンが尋ねる.発見した当初から目をつけていたアメジストのネックレスに
魔力があるのがわかり,他の魔法的な品物と共にその価値を調べるため,ツカサは
鑑定商人や魔法使いの元を訪れているはずであった.
ここで,この冒険者たち…言うまでもなく,彼らは冒険者である.一行を簡単に
紹介しておこう.ドワーフの戦士ドルバ,エルフの精霊使いロリエーン,女戦士
リューナ,女軽戦士(かつ,冒険に無くてはならない職業の)キティア,吟遊詩人
アヤ,女治療師ミティラ,神官戦士ツカサ.この組合せは,
一般的とはとても言えない.すなわち,大いなる魔法語の力を操る
魔法使いが存在しないことである.魔法語自体は,わずかながらリューナが扱いを
知っているが,その力は駆け出しの魔法使いに及ばない.故に,魔法的な能力は
他の冒険者集団と比しておおきく欠けているといえる.
それでも,この冒険者集団は成功してきた.魔法は切札として有効であるが,
あくまで切札である.通常旅をするにあたり,魔法使いの脆弱性は大きなマイナス面
として現れる.精神力に努力を傾注しているため体力が追いつかないこと,武器の
操りに慣れていないため,戦力として計算できないこと.冒険は常に死と隣合わせ
である.切札的局面にたどり着く前に死闘となり,魔法使いの卵たちは,その力を
一度も発揮することなく命を落すことも稀ではない.
「ぜんぜん別行動.収穫多かったし,自分で手ずから調べたいこともあるんじゃ
ないかな?」アヤはそう言って,近くの露店で買ったパンにかじりついた.
「さっきねぇ,エメラルド何とかっていうやつらがこの宿に来たんだよ」
キティアが言った.
「えめらるど…碧眼竜のこと? 何で?」
アヤの返事と同時にミティラの表情がかげる.偶然の出会いから冒険の旅に同行
している彼女であったが,碧眼竜の名前は彼女が貴族の肩書を持っていたころから
記憶にあるものであった.そのころは純然たる恐怖の対象として教えられていたが.
「わからん」
ドルバの答えはすげない.
「わからん,って,そんな簡単に済む問題じゃないじゃないか! 理由も何もわから
ないのにいきなりみすみす殺される羽目になんか陥りたくないよ!」
澄んだ声が感情に押され,芝居じみて聞こえるのは職業柄だろうか.彼は「役に
立たない」と罵倒されながらも軽戦士であり,吟遊詩人である.感受性に富んだ心を
持つ彼にとり,吟遊詩人は天職かも知れないが,戦士としては不適格である.好きな
ものを守るためには戦えなくてはならない,という考えは分からなくもないが,結局
武器もろくに扱えない現在としては,戦士の訓練という無駄な時間を費したと言って
もおかしくはあるまい.
折りに触れて見せる気弱な表情と言動を取ってみても,彼は戦士として不適格で
あるという結論しか導けない.今でこそ慣れてしまってはいるが,ドルバは当初,
ずっと首をひねり続け,世界の大いなる不思議の一つにはいるぞ,とまで言って
はばからなかった.
「でも,わからないものはわからないのよ.私たちみたいな外界の人間が暗殺者
に襲われるなんて夢にも思わないもの.それ相応の怨みも知らず買っているかも
知れないけど,今ここで急に襲われる理由なんてないわ」
「少なくとも,私には関係ないもん」
ロリエーンはそう言って,アヤが取ろうとしていたパンをひょいとつまみ上げる.
「一番怨まれるようなことしてる癖に…」
「なんか言った?」
ロリエーンの眉がきっとつりあがる.エルフという種族特有の,端正な顔立ちの
彼女であるが,怒らせると恐い.子供っぽい悪戯心が瞳の中に光っている間はまだ
いいのだが.エルフの年齢は測り知れないというが,魅力を感じるというには,
彼女の表情はまだ「幼い」ようだ.
ミティラと比しても,ロリエーンは幼く見える.ミティラは 17 歳.まだ少女の
域を出たばかりとも言える微妙な年齢.しかし,彼女の瞳はその年齢を遥かに越えた
苦労の色に染まっている.貴族然とした落ち着きの奥には,苦しみ耐えた日々が隠れ
ている.その瞳は濃い紫から青くひらめく不思議な色合いをたたえ,その色の意味を
測り知るものは少ない.今でこそ快活さを見せることがあるが,ロリエーンの表面に
浮かぶ可愛らしさとは対象的な,一歩下がった美がある.しかし,まだ 17 歳.
詩人たるアヤがその瞳に惹かれたと言っても,否定する人間はいないだろう.
しかし,このアンバランスなふたり,身長もほぼ揃っているし,おしゃべりなのは
男の方.そんなアヤを優しく見守るミティラ.もっといい男が世の中にいくらでも
いるだろうに,と嘆く者も,たった今比較に挙げられた目の前の女性以外にも数多
くいることだろう.
「え? なんにも言ってないよ」
「あ,そう.じゃあこのパンはもらうわね」
「パンぐらい,ここで頼めばよかろうが…シーリアさん,エールを一杯くれる
かの」
ドルバはため息混じりにお定まりの台詞を口にする.酒に酔っても潰れること
のないと言われるドワーフは,水の代わりに酒を飲む.それもワインのような上品
ぶった酒はご入り用ではないらしい.追いかけるようにリューナも果実酒を注文
する.リューナも酒そのものは嫌いではないらしい.ただし,彼女は厳密に節度を
守り,醜態をさらしたことが全くない.それでもドルバは,彼の仲間の中では自分
の次に酒が飲めるタイプだろうと判断している.
「はい,少々おまちを」
シーリアも美人に分類される方なのだが,ミティラやロリエーンが相手になると,
やや落ちる感がある.町娘として生まれた彼女はやはり町娘であり,その町娘らしさ
を天職と享受し,やりがいのある仕事をしたいといつもはりきっている姿は,
美しさよりもすがすがしさを感じさせる.この感覚は,外界であり暗い世界でもある
冒険者稼業にとっての安らぎである.だから,この宿は活気にあふれている.
「しかし,フカイの森の廃虚はかなり大仕事になったのう」
「魔法使いがいないのがあんなに大変だとは思わなかったものね」
ロリエーンがドルバに合わせる.堅さでは定評のある巨大蟻を相手に戦ったとき
のことを指しているのであろう.リューナが光球…ただの「光を作る」だけの魔法語
で蟻をおびえさせ,その間隙を抜けたのである.
「へっへーん,わたしの活躍も見事だったでしょ?」
キティアは見た目こそ何かつかみどころのない,ぼんやりした風であるが,
技術的側面は侮れない.宝石の異変に気付いたのも彼女であったし,先の廃虚では,
これまで訪れたであろう全ての冒険者が見逃したと思しき隠し扉を発見したので
ある.
「そうよね,キティアがいなかったらあたしの首飾りだって見つけられなかった
んだし.感謝,感謝.」
「いつのまにロリエーン,あなたの物になったんですか」
そう言いながら,風采の上がらない男が宿に入ってきた.ツカサである.
「ツカサ,随分遅かったじゃない.何してたの?」
「そうですね」ツカサは仲間の集まっていた机のそばにある椅子をつかみ,それに
腰かけると,背中にかついでいた袋を無造作に机上に放り出した.テーブルが不平の
きしみを上げる.
「ちょっと,首飾りが傷ついたらどうするのよ!」
「大丈夫です.あれだけ強力な防護の呪符が彫り込まれた首飾りなら,おそらく
竜が踏んでも壊れません.かなり貴重な代物らしく,この町で一生暮らせる程の
額を提示した魔法使いもいましたっけね」
そう言いながらツカサは,ロリエーンお目当ての首飾りを取り出した.もしや
売ってしまったのでは,と心配そうにしていたロリエーンがほっと胸をなでおろす.
「まあ,本題はそれではないんですが」
再び手を袋に入れると,今度は小さな古ぼけた金属性の箱を取り出した.中には
大粒のオパールに似た乳白色の宝石が入っていたはずである.宝石に詳しいドルバ
さえ,この宝石が何であるか断言できなかった.
「これです.ご覧になりますか.おどろきますよ,きっと」
ツカサはもったいぶったような,ちょっとおどけたような笑みを見せて箱を
開けた.
「あれぇ?」
キティアが不思議そうな声をあげた.中に入っていたのは乳白色の宝石ではなく,
ほんのり薄桃色に染まった宝石だった.それも,うっすらと輝いているようにさえ
見える.
「単純に中身を入れ換えた,ってことはしないわよね,まさか…」誰に話すでも
なく,ロリエーンは自己完結する.既に紫水晶の首飾りは彼女の白い肌を彩っている.
神秘の魔法文字が刻まれた守りの首飾り.
「で,これは何じゃ?」
「卵です」
ツカサの答えもまた,ドルバのそれのようにすげない.
「ふむ.それではワシに見当がつくはずもないのう」
納得して,ドルバはジョッキをあおる.空になったジョッキを置くと,既に準備
してあった次の杯に手を伸ばす.一方,減らないシェリーのグラスを持ったままの
リューナが,当然投げかけられるべき質問を投げかけた.
「で,何の卵なの?」
「さあ」
「さぁ,って」呆気に取られてアヤが言う.
「わからないのにどうして卵だってわかったの? 卵はその親がいるから産まれる
ものなんだから…そうでしょう?」
「アヤ,」ミティラが後を諭す.「あなた,鵞鳥の卵と白鳥の卵の区別がついて?
それと同じことですわ」
「え,それはそうだけど…」
何か言いたげなアヤだったが,返す言葉が見つからず口をつぐむ.
「まあ,何の卵でも構いはせぬが…」
「それが,かまわなくもないのですよ,ドルバ」
つまらなさそうにジョッキをあおるドルバの言葉をツカサがとがめる.
「どういうこと?」
リューナの問いは至極当然である.
ツカサは,どことなく不思議な香りのする男である.端目にはのんびり屋の様相
を呈してはいるが,彼は元聖騎士団の一員であったという.今でこそ自称「破戒僧」
として冒険者に身をやつしてはいるが,本来であればそれ相応の地位が約束されて
いたはずである.その身に何を感じたかは,仲間の誰も知らない.
「ええ,何でも『魔獣王の卵』というふうに伝承にはありました.この魔獣王と
いうのは,全ての獣たちを統べる孤高の王だそうで.数百年の寿命を持つ生き物なの
だそうです.なんでも,ある神の使いとしてこの世界に送られたのだとか」
「よくある話よね.それで?」
「魔獣王は,その寿命の終わりに卵を産み,六百六十六年の期間をおいて世代を
交替するのだそうです.ところが,この卵がふ化するとき,そのもっとも側にいた
生き物の願いを聞き届け,叶える力をもつのだそうです.つまり,魔獣王の持つ
力をすべて我が者に操ることも可能になる,ということになります.というわけで,
遥かな昔にはこの卵をめぐって随分争いが起こったとか,その力を悪用して世界中
に恐怖を振りまいたとか,それはもうこれでもかというほど伝承が残っています.
そこで,ちょうど六百年ほど前の魔法使いがこの卵を封印し,ふ化する直前に人目
につかぬ所へと転送する魔導機を創出しました.まあ,それから実は一度もこの
魔獣王はふ化せずに,魔導機の置かれた塔は廃虚と化し,現在に到っている,という
わけです」
「廃虚になってる…って,もしかして」
「ええ,フカイの森の廃虚のことですが」
あまりにあっさりとした返答に,他の者たちは信用できるのかどうか考えあぐね
ている様子であった.唯一キティアだけが,
「ねぇ,じゃあこの卵はどうするの? 力を悪用するとかいう人に見つかったら
ダメなんでしょう?」
「まあ,そういうことになります.ただ,見つかるなというのが無理な話で…
ドルバたちも既に気付かれているのでしょう? 碧眼竜とかいう地下組織に」
「お主がすぐに調べられるような伝承を,組織力のある奴らが知らぬはずはない
わのう.ということは,ツカサ,お主ならこの魔獣王の卵,どうする」
「そ,そ,そんなの,即刻手放すべきだよ! この町の長でも教会の司祭さまでも,
男爵様でもいいじゃない! とにかくさっさと手放そうよ! 僕は碧眼竜にいつも狙われ
ているなんてごめんだよ!」
「それは駄目よ,アヤ」リューナが言う.
「この町は…ううん,この国は権力争いが激しいのよ.そんな中にこの力のある
卵を投げ込んでごらんなさい.大騒ぎになるわよ.教会だって,碧眼竜だって,男爵
だって,この国の国王だって欲しがるでしょうね.きっと…卵の所存が決まったころ
には,この国の人口が半減してる,なんてことにもなるかもしれないわよ.権力
なんてそんなものよ」
「でも,あたしたちには関係のない話でしょ」
「お主やワシは,人間の町がどうなるかにはいささか興味が薄いがな.とはいえ,
戦になればワシらの故郷にも飛び火するのは必定.結局ワシらにも要らんツケを払わ
されることになるんじゃろうな」
「だから人間なんて信じられないのよ!」
ロリエーンは投げつけるように言い,あわてて付け加える.
「そりゃもちろん,みんなは別よ」
「で.ツカサ」
「簡単なのは,この卵を,いまここで割ってしまうことでしょうね」ツカサは
まるで鵞鳥の卵を割るように言う.「ただ,それができるならすでに先人がやって
いるでしょうし,このとおり」
ツカサは力一杯卵をテーブルに叩きつけた.鈍い響きを残し,テーブルが衝撃で
きしんだ.だが,卵にはかすり傷すら見えない.ツカサは興味なさげに言葉を続け
た.
「それが出来ないと仮定します.とすると,やはり誰かの手で封印するなり,
手の届かない所へ投棄するなりする必要があるでしょう.しかし,先程からの話の
通り,これを誰か力のある人間の手に渡すのはあまりいい手段ではないようです.
そもそも,現在のセスティアにはこの卵を封印できる力のある魔法使いはおります
まい…したがって,結論としては,どこか人目につかぬところへ隠す,あるいは
人間の手の届かないところへ捨てる,ということになると思います」
「卵がかえるのはいつなの?」
「一年弱です.厳密には11月と15日になります」ツカサの答えは必要以上に
厳密であった.なにかの手段で計算したのであろうか.
「今しばらく廃虚の発見が遅れておれば,どうということもなかったのじゃな…」
ドルバはそうつぶやき,壁に張られている『フカイの森に廃虚発見!』という貼紙
を睨みすえていた.既に2杯目のジョッキも空になっている.
「それで,人目につかないところってどこ?」
ロリエーンが,これで最後とばかりに質問を投げかける.
「それはもっとも大事な質問なのですが,少なくとも未開地の方になるでしょう.
伝承には明確に示されていないのですが,この卵を転送する先として指定されて
いた場所があります.祭壇のようになっているということでしたので,そこへ安置
するのが自然ではないかと思います.そうでなければ…火山にでも捨てますか」
火山はこのブルーフォックスのはるかに東に存在する.ツカサの話によると,
祭壇もその側にあるのではないかという.
「どちらにせよ,未開地に奥深く入るしかないんだね」
「まあ,開拓村が点在していますし,しばらくは地図もあります.危険はまだ
ずいぶん先でしょう」
ツカサが答える.
「さて,そうと決まれば,今日はさっそく出発を祝しての宴会じゃ!」
「能天気だよ,ドルバは」
ドルバの響く声にアヤは毒づいた.ミティラがそのアヤの表情を見て優しく微笑み
かける.
ちいさな古ぼけた金属の箱に座っている卵は,うっすらと桃色に輝いていた.