Chapter.1

夜明けが訪れた.
闇と悪夢の支配は今終わりを告げ,新しい光の世界が生まれる.それは新たなる 旅立ちを祝福する神の微笑みのようでもあり,全てを守り支える神の眼差しのよう でもある.全ての生き物に等しく命の息吹を与え,闇にうごめく悪鬼たちを打ち払う 神の奇跡,それが太陽であった.
しかし,ここラベンダーの香り亭には,その言葉が通用するものはごく小数しか いなかった.宿の一階にある酒場の荒れ様は,昨夜の大騒ぎを物語っていた.
「みなさーん,朝ですよー」
シーリアの声がその酒場に響いた.立っている机は数える程もなく,床に転がる 酒瓶や樽は数え切れない.床に転がっているのはそれらだけではなく,鬚面のドワーフ と童顔の青年も加わっている.その側には,毛布を掛けられたままエルフの少女が 気持ちよさそうに寝息を立てており,その彼女がもたれているのもまた,あどけない 少女の風貌の抜け切れない女性だった.
しばらく後,彼女たちを起こさぬように静かに掃除を始めたのは,すでに少女と は呼べない女性だった.装いを気にすることもないようで,スカートの裾を絞って 床に擦れないようにして,箒を握っている.
その女性の足が,倒れているドワーフの腹を蹴飛ばした.
「いつまで寝てるの? さっさと起きなさいよ」
「ん…なんじゃ,朝か」
むくり,と起き上がったドルバは,二,三度頭を振る.
「おい,アヤ,起きろ.朝らしいぞ」
「う…あ,いてて…」
ドルバに荒っぽく揺さぶられたアヤは,頭を抱えるようにして身体を起こそうと している.飲みすぎたのであろう,頭の奥で真鍮の鐘がガンガンと大きな音で鳴り 響いている.手近にあった椅子をつかむと,アヤは座り込んで情けない声でうめき 始めた.
「二日酔いとは,お主はまだ未熟じゃのう」
「あれだけ飲めば,人間にはこたえるわよ,普通」
うめいているアヤに代わってリューナが答えた.床に散らばったグラス,あるいは 瓶の破片をせっせとかき集めている.手慣れてはいないが,誰もいないのだから 仕方がない.ミティラは上階の客室で旅支度を整えているところであった.リューナは 箒を振り上げ,
「はいはい,そこ邪魔だから退きなさい.全く,どうして私がこんな大変な目に 会わなければならないのかしら」
「さあ,どうしてじゃろうのう?」
「ドルバ!」
「ちょっとぉ…何朝からうるさいわねぇ…ゆっくり寝てられやしないじゃない…」
リューナの怒鳴り声にロリエーンが目を覚ます.
「十分な睡眠が肌にはいいんだから,もう少し寝さ…せ…」
言い終わらないうちに,再び眠りに落ちた.規則的な寝息がまた彼女からもれる. 元来寝起きの悪い方ではないはずなのだが,ドルバにつつかれて飲んだ酒が相当 効いているのだろう.毛布が方からすべり落ち,左肩があらわになっている.寝乱れ た,といえば聞こえはいいが,昨日の騒ぎで来ていたドレスが崩れてしまっていると いうことである.リューナが再び,彼女の肩まで毛布を掛け直す.
「ツカサはどうした?」
「食料品の買い出しと,馬を見てくるって言ってたけど」
「馬,のう」
ドルバの台詞が苦々しい.彼は馬に乗るのが苦手である.馬に嫌われる体質なのか どうかは知るよしもないが,馬に乗っていていいことのあった例が彼にはない. ある時は鞍から落され,後ろ足で蹴り上げられたり,全速力で暴れ回られたことも あった.ロリエーンが鞍さえつけずに,馬に何事か囁きかけるだけでさっそうと 操っているのを見ると,どうしても理不尽に感じて仕方がない.
「…馬は,嫌いじゃ」
ドルバは結論だけを口にした.リューナがふふっと,思い出し笑いを交えておかし そうに笑った.ドルバは機嫌を悪くしたようだが,ふと我に帰ったように言った.
「おや,シーリアさんはどうしたんじゃ?」
「洗濯に行ってるはずだけど…そういえば遅いわね」
リューナは目線を宙に浮かせ,思い出しながら答えた.その目がはっと細くなる. 何かに気付いて顔を緊張させると,彼女は箒を投げ捨てた.その代わり,側に置いて あった彼女の剣をつかむ.
「心配だわ,ロリエーンたちはお願いね」
「待たんか,ワシも行く.アヤ,あとは任せたぞ」
ドルバは自分の部屋に掛け上がり,ものの一分もせずに戻って来る.そして, 飛び出して行ったリューナの後を追う.頭の回転が鈍っているアヤは,ドルバの台詞 は理解できたものの,行動には遠く及ばなかった.鐘はまだ鳴り響いている.

*

二人は一陣の風のように街路を横切った.
宿屋通りの奥手には,小さな井戸がある.町の人々は普段.中央広場にある大きな 井戸を使って洗濯をするのが常で,この井戸はもっぱら旅人が水を汲み,喉をうるおす ために存在している.そのためか,朝はやくからこの井戸を使う者は少ない.シーリア はこの井戸を好んで使っていた.旅人のための水を用いてこそ旅人のための洗濯に 似合っている,と彼女は思っていたからである.
乾季にはこの井戸は水を失うため,中央広場の井戸へ行かざるを得なくなり,それ がとても残念だ,とシーリアが笑顔で言っていたのをリューナは覚えていた. 今は雨季が開けて間もない時期である.彼女がいるとすれば,この旅人の井戸で あろう.
「シーリアさんっ!」
リューナが叫んだ.
井戸を囲んでいた男たちが声の方を振り返った.中央には服さえも無惨に裂かれ, 荒い息をしている女性の姿があった.一人の男が彼女の胸を突き放すと,シーリアは その場に崩れた.男の数は,五人.
「女性一人に五人がかりとは,卑怯さも地に落ちたわね!」
リューナの瞳が怒りに燃えていた.男たちの狙いは,情報…昨日,彼らの仲間を 打ち倒した冒険者のこと,フカイの森から卵をもち帰った冒険者のこと,彼らの 今後の動き.しかし,彼女の様子を見れば,答えが得られなかったことは明らかで, 彼らは彼女に危害を加えてまでも,その情報を得ようとした…その瞬間に,リューナ たちは間に合った.
弱者から情報を得る.そして,得られようが得られまいが,切り捨てる.彼女は その手法の汚さを,幾度も味わっていた.体験していた.しかし,その度ごとに やるせなさ,怒りは募るばかりであった.
男たちは,昨日の男たちのように無言でリューナたちを睨む.あるいはうすら 笑い.彼らは数での優位を確信しているのだろう.
ドルバが立ち止まった地点から,一歩踏み出す.リューナは剣を逆手に持ち替え, 右手で大きく円を描く.男たちは,彼らの武器を握っている.ドルバはここで初めて 自分の手斧に手をかけた.しかし,まだ抜くそぶりはない.
『風よ!』
リューナが失われた言語で叫び,円の中心に不可思議な印を描き入れた.突如 空気の流れが止まる.刹那,逆巻くような暴風が男たちへ突如襲いかかった.巻き 上がる砂埃と風の勢いに,男たちは足場を守るためその場に踏んばり,そして目を 庇った.服の裾がひるがえり,銀の腕輪が光る.
ドルバはそれに呼応するように斧を引き抜くと,それを短い腕振りで投げつけた. 手斧は空を見当違いの方向へ飛翔したかと思うと,急激にカーブを描いて戻ってきた. その斧は戦いのもっとも奥,シーリアの隣にいた男の肩に命中した.彼女を盾にした, もっとも相手にしにくい男に第一撃が見回れた.致命傷には程遠いものの,右肩の 傷はかなり深い.男はうめきながら肩を抑える.血が風にしぶいた.
ドルバはすかさず第二の手斧を抜き,構えた.冒険者の鉄則,予備の武器は邪魔 にならない最大量を準備せよ.
男たちの顔に狼狽が伺えた.女戦士に魔法が扱えるとは思っていなかったのだろう. 魔法とはいえ,リューナが放ったのは「風を生む」だけの魔法である.しかし, たったそれだけの魔法が今や形勢を大きく傾けた.男たちの表情に,先の余裕は, ない.
「死にたくなければ,消えろ.さもなくば,死ぬんじゃな」
ドルバが低い声で,一語一語を区切るように言った.
男が一人,ドルバに飛びかかってきた.必死の形相.失敗すれば彼らには制裁が 下される.どちらにせよ死は免れないのだろうか.しかし,平静を忘れた男には あまりに隙が多かった.ドルバは必死の一撃を安々と受け流すと,開いていた片手で 男のみぞ落ちを大きく突き上げた.
どうっ,という音を立て,泡を吹いてその男はその場に崩れた.
残る男たちはすでに戦意を失い,彼の倒れる様子を確認する前に逃げ出した. それに少し遅れて,リューナはシーリアの側に駆け寄った.髪留めが地面に落ち ている.裂かれた服のすき間から白い肌と,生々しく赤い傷が走っているのが見えた. 傷は大きいがそれほど深くない.他に傷つけられたところもない様子で,リューナは ほっと胸をなでおろした.
「リューナ,シーリアさんを宿へ運んでくれ.ワシはこいつらを番兵にでも突き 出してくるわい.碧眼竜の一味なら,賞金の少しも出しよるじゃろう」
ドルバはそう言って,手傷の男に手刀を叩きつける.意識を失った二人の男を 彼は軽がると引きずりはじめた.リューナはうなずくと,自分たちのせいで犠牲と なりかけた女性を一刻も早く安心させるよう,宿屋へと向かった.シーリアはリューナ の胸の中で小刻みに震えている.それが体温を使い果たしたせいか,傷の痛みの せいか,それとも悪夢のせいなのかは,リューナには判断しかねた.
リューナがたどり着くと,心配そうな顔をしてロリエーンとキティアが駆け寄って くる.シーリアを下ろすと,リューナが言った.
「ツカサはまだ帰ってないの?」
「いえ」ツカサの声がした.「ここにいますが…シーリアさんはどうなさったん ですか」
「碧眼竜に襲われたわ.傷は浅いようだけど,看てやってくれない?」
碧眼竜の名前が出ると,ロリエーンが表情をかげらせた.キティアも心配そうな 瞳をリューナに向けて尋ねた.
「それって,卵のことで?」
「そうでしょうね…他には考えにくいし」
騒ぎを聞きつけ,2 階からミティラが降りてきていた.ツカサの横で治療補助を している彼女の表情からも心配が隠せない.汗を拭く手ぬぐいをしぼる手に無意識に 力がこもる.
「権力(ちから)って,そんなにいい物かしらね」
「いいえ」
期せずして,ロリエーンの独白にミティラとリューナの答えがシンクロした.
「権力が産むのは,戦いと憎悪だけです.だましだまされ,憎み憎まれ,争い 殺しあう.私の父や母も,その人間の生み出したものの奴隷となってしまったの ですわ…どんなに恵まれた生活が出来ても,権力なんてもうたくさんです」
ミティラの口調は,いつになく強い.自ら貴族の娘であった彼女は,権力闘争と いう恐怖を肌で感じたことのある人間のひとりである.偶然,こうして冒険者と呼ば れる外界の人間と接するうち,権力の世界にはなかった,友情と信頼のみで結ばれる 関係の存在を知った.それは彼女にとってあやふやである以上に,魅力的に映った のだろうか.友情と信頼は脆く崩れやすい…が,彼女はまだそれを知らない.
「権力が必要なのは,社会が不安定な時だけね.誰か強いリーダーの元,団結 してなにかに当たらなければならない時,そのときには権力の存在は不可欠とも言 える.でも,それ以外にはびこる権力は単なるおごり.他の人間よりいいふりが できる虚構の衣装に過ぎないわ」
「もう,権力なんて忘れました.私たちには,それでいいではありませんか」
ツカサが傷の手当をひととおり終わらせると,彼女たちの会話を途切れさせた.
「ドルバはどうしました?」
「もうすぐ帰ってくるわ.何でも番兵から賞金を巻き上げてくるんだとか」
リューナはおどけたように言った.そして思い出したように,
「いけない! 掃除の最中だったんだわ.ロリエーン,キティア! 悪いけど手伝って くれないかしら?」
「『嫌だ』と言っても手伝わせるんでしょう?」
そう言って笑いながら,ロリエーンはリューナの投げ捨てた箒を拾い上げた.
リューナとキティアは洗濯物を洗い直しに中央広場の方へ向かう.ミティラに 代わってツカサが荷物の整理に 2 階へ上がり,ミティラは怪我人と二日酔いの甘え ん坊の世話を受け持つことになった.そのアヤはまだ頭痛がひどいようで,ミティラ のすぐ横で机に頭を伏せていた.
ロリエーンがスカートの裾を気にしながら箒を動かしていると,ほどなくドルバが 帰ってきた.
「なんじゃ,お主まだ寝ておるのか」
「ドルバが無理矢理飲ませたんじゃないかぁ…」
弱々しいアヤの講義は無視して,ドルバはシーリアの方を伺う.
「ふむ,この娘は強いな.よく耐えた」
そう言って,手にもっていた袋を机の上に放り上げた.金属の鈍い響きがする.
「銀貨が百枚.昨日の酒代にもなりゃせんわい.まあ,碧眼竜の一味というだけ で,大した奴らではなかったのは確かじゃが,これでは分が合わん」
「百枚って,いったい昨日どれぐらい飲んだの?」
「そうさの…この宿にあるエールはあらかた昨日のうちに無くなっておるはず じゃが…」
「呆れて物も言えないわね,もう」
「そういうお前もかなり速いペースでぐいぐい飲んでおったかと思ったらすぐに 寝てしまったような気がするがのぉ…大体お主,何処で目覚めた?」
ロリエーンは困ったような怒ったようなあきれたような,複雑な表情を作り, ミティラはそれを見てただクスクスと笑っていた.
シーリアが目を開いた.何かにおびえるように,ぎこちなくあたりを見まわす. そこが自分の宿であることに気がつくと,やっと記憶が繋がったらしく,安堵のた め息を漏らした.ドルバがのっそりとシーリアの表情をうかがう.
「私…助かったんですか?」
「ごめんなさいね,私たちが原因でこんなことになってしまって」
ロリエーンがちょこんと頭を下げた.
「いえ…恐縮です.お客様の安全と秘密を守るのは,私たち宿を営む人間に とっては当然のことですもの.それを貫き通したからと言って,お客様に謝って いただくことなどありませんのに…」
「そう言われてしまうと,その,何というかのう」
シーリアの顔に戻った毅然とした瞳の輝きに押されて,ドルバも次の句に困る.
「でも…助けていただいて,本当にありがとうございます.本当に恐かった… 死ぬかもしれないと思ったとき,何もかも喋って逃げてしまいたいと思ったのも 本当です.もしあのとき,皆さんに来ていただかなかったら,私…」
シーリアは言葉に詰まった.
「いや,ワシらは当然のことをしたまでじゃ…のう,ロリエーン?」
「えっ,ええ,そうよね,そうそう.そんなに感謝しないで.恥ずかしくなっちゃ うわ」
「ああ,もうこんな時間…チェックアウトのお客様がいらっしゃるわ.はやく 支度をしないと…」
おきあがろうとするシーリアをミティラが制した.
「傷口がふさがるまで,もう 2,3 日はじっとしていて下さい.その間,この 宿の仕事のことは忘れて,自分の傷を直すことだけを考えて下さい.お泊まりの 他のお客様には,もっと健康的なシーリアさんの笑顔を見せてあげて下さいね」
「そうじゃ.…アヤ,シーリアさんをベッドに運ぶぞ.手伝わんか」
「申し訳ありません…でも,宿を切盛りする人間がいないと…」
アヤにおぶさりながらも,彼女はそう言った.時折,傷の痛みに顔がゆがむ.
「そうさのう,誰か長期の滞在者にでも頼んでみるのがいいじゃろうな.えー, 何と言ったかな,威勢のいい女戦士が確か隣の部屋だかに泊まっておったはずじゃ が…そういえば職がないとかぼやいておったし,多少は都合がええじゃろう」
「あたしが頼んでくるわ」
ロリエーンは箒を壁に立てかけて,さっと階段の方へ向かった.
「申し訳ございません,御迷惑ばかりお掛けして」
「なあに,銀貨百枚ばかり儲けさせてもらった礼じゃよ」
ドルバはそう言い,握りこぶしから親指をぐいと立てて見せた.シーリアはその しぐさにやっとほっとした様子で,いつもの優しい微笑みを見せた.ベッドに寝かされ しばらく目を閉じていたかと思うと,すぐにまた眠りに落ちていった.よほど精神的に 参っていたのであろう,彼女の眠りは深かった.
ロリエーンが階上から降りてきた.
「請け負ってくれるって.これで一段落ね」
「しかし,参ったのう…まさか出発前からこうもつけ狙われるとは思っても見な かったわい.これでは落ち落ち眠ってもいられない日が続きそうじゃ.ロリエーン, 言っておくが今回は,お前を夜番からはずすような真似はせんからな」
「何ですって!」ロリエーンの表情が豹変する.「冗談じゃないわ,夜更しは 美容の敵なのよ!」
「この非常時に美容も何もないじゃろうが.お主の美容とかなんとかいうくだらん もののせいでどうなった? 荷物は多い,夜番はきつい.しかも今回は確実に命に 関わるから可能な限り二人交替で番をしようと考えておるというのに,五人では割り 切れんではないか」
「ミティラさんがいるじゃないの!」
「あの娘ではいざという時に戦力にならん.治療や料理では知らぬが,精霊を 操るお主のほうが戦力はあるじゃろうが.だから言っておるんじゃ」
「それじゃ明らかに不当差別じゃない! 冒険に出ている限り,夜の番も料理の仕事 もみんな平等よ! なのに何よ,今までさんざん料理だ洗濯だと押しつけておいて, その上に見張りまでやらせようって言うの?」
「今までは夜番をしなかったからその代わりに料理が廻っただけじゃ! 大体他人の 料理にいちいちうるさく文句を言うお主が他人の料理で満足するのか?」
「人の料理に文句を言うのはドルバだって同じでしょう! 自分を振り返りなさい よ自分を! 人に文句言える立場なわけ? 戦力がないから? 冗談じゃないわ,見張りに 必要なのは眠らないでいられる忍耐力と他人を起こす能力だけよ.それぐらい,いかに 治療専門のミティラさんでもあるわよ!」
「不意を打たれたときはどうするんじゃ! 戦力まるでなしのあの娘よりお主の ほうが安心じゃからと,ワシは言っておるんじゃ.何度も言うが,今回は今までの ように廃虚や洞窟についてからが冒険,という甘いものとはわけが違う.たとえ 街道沿いでも死の危険があるんじゃ.だから万全を期して,と言っておるのに何が 悪いんじゃ!」
かみつきそうな二人の口喧嘩は果てない.リューナとキティアが帰って来たと きもまだ喧嘩は続いており,彼女たちはというと,「またですか」という目で二人 を見やっている.洗濯物のかごをどさっと床に置いて,呆れて見ているしかない. リューナは持ちあげていたスカートの裾を下ろし,思い出したように二階へ上がる. この格好では冒険にならない.
「大体ね,香辛料は料理の味付けを難しくするのよ! そうだというのにやれかさ ばらないから,やれ日持ちがするからといつもいつも香辛料漬けにしてある乾燥肉 を食糧に選ぶなんて,神経どうにかしてるわよ!」
「冒険に出てまで一級品料理を食おうなどとは思わんでええんじゃ! うまい物は 冒険から帰ってくればいくらでも食えるではないか.何が悲しゅうて持ち帰る宝の 量を減らしてまで飯の量を増やさねばならんのじゃ?」
「ドルバはエールさえ飲んでいればいいからそんなことが言えるのよ!」
「ワシはエール中毒か!」
「まだ中毒患者のほうがかわいいわよ.それなりの量を飲めば安心するから. ドルバの酒量は底なしじゃない! 食糧の重さより酒の重さの方がかさばるんじゃ なくて?」
「酒ぐらい,宝を見つけた時に飲んでしまえばいいんじゃ! 食糧は生きて行くのに 必要なのじゃから,その場で全部使い切るわけにはいかんじゃろうが!」
「元々持って行く時の苦労はどうなるのよ! 宝を見つけた時点で飲んでしまう ぐらいならはじめから持って行かなくったっていいじゃない!」
口喧嘩は終わりそうにない.
「よくあんなに持つなぁ…もともとは何の話だったの?」
頭痛からやっと回復したアヤがミティラに尋ねた.ミティラは笑って答えた.
「いいんじゃありませんの? ああしてあのお二人は仲のいいことを確認して いるようなものですから.私,あの二人の口論が発展して大喧嘩になったところを 一度も見たことがないですもの」
「そんなものかなぁ.わたしにはわかんないけど.それより,準備はできてる のかなぁ?」
キティアがつまらなさそうに口喧嘩を見ながら,聞くともなしに尋ねた.彼女の 方はお気に入りの服も多いわけではないし,持ち運ぶものも護身用の短刀が数本と ちょっとした小道具だけであり,めったにそれを身から離すことはないので, いつでも冒険に出る準備ができている,と行ってもおかしくはない.
「そうそう,キタラの調整をしておかなくちゃ」
アヤはそう言って,自分のお気に入りの楽器を取りに階上へ上っていった. すれ違いにリューナが旅装束で降りてきた.髪をまとめるターバンと,革の鎧を 基礎とし,金属の胸当てのついたかるい鎧.そして彼女が唯一つけている装飾品で ある,水晶の飾り留めで留められたマント.腰には冒険の時だけに持つ,かなり重い 幅広の剣があった.
「あら,今日は長いわね」
リューナが別段意外でもなさそうに言った.すでに太陽は中空にまで達しようと している.都合小一時間も喧嘩は続いているのである.リューナが彼ら二人の間に 割って入った.
「何でもいいけど,出発の準備がもうすぐできるわよ」
「む,そうか.ロリエーン,この話は持ち越しじゃ」
「もう一度だけ言っておくけど,宝石より装身具の方が絶対いいんだからね!」
「物分かりの悪い奴め,宝石の方が数倍勝っておるわ!」
「はいはい.ロリエーン,着替えてらっしゃい.ドルバは準備できてるん でしょ」
リューナはそう言って二人を強引に分けた.ロリエーンはなおもぐずぐずと言い ながら階段を上がっていった.ドルバはその場にどっかりと腰を下ろしたまま, いつもの台詞を口にする.
「おーい,戦士のねえちゃん,エールを一杯くれるかの」
しばらくの間,ツカサとアヤが宿の中と外をいったり来たりして荷物を運んでいた が,それも終わり,ロリエーンが階段を降りて来るのとほぼ同時にツカサが 言った.
「出発準備,できました」
「ところで,卵は?」
「ミティラさんに預ってもらっています.彼女を守る形なら,今までの冒険とは さほど変わらないわけですから.それでいいですよね,ドルバ?」
「ワシは,馬は好きではないんじゃがのう.まあ,仕方あるまい」
「船よりマシだと思えばいいんじゃないの?」
「思い出させるんじゃない!」
キティアの台詞にドルバは頭を抱えてうめき,他の仲間は笑った.
「さあ,それじゃあ出発しましょう.この町とはしばらくお別れだけど,また すぐ戻って来るわ.シーリアさんに伝えてほしいの,とびきりの土産話を持って 帰って来るってね.お願いできるかしら?」
リューナが聞き,カウンターに立っている女戦士がうなずいた.
旅立ちの時は来た.
数頭の馬を従え,彼らの姿は町の通りに消え,またこのブルーフォックスの町 からもすぐに見えなくなった.彼らと卵の冒険は,たった今始まったのである.

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