Chapter.3
ハンスまであと〇.五,と書かれた看板がある.
馬車を巻かされている冒険者たちは,ろくに看板の確認もせずに通りすぎた.
その荷台には,布をかけた小山のような麻袋が積まれている.その幌の上に,
女性が二人座っている.ひとりは,麻袋の上に座るには高貴すぎ,ひとりは
そうするには活発に過ぎるようだった.
馬車を引く馬は四頭.本来であればこの馬車は二頭立てである.
「しかし,本気で砂糖と塩とはな…」
御者台に座るドルバが思い出したように言った.
「本当に護衛頼まれてたんだね.変なの」
荷台の砂糖の上でぼんやりと青空を眺めながら,キティアが言った.悪天候を
運びそうな雲は風にちぎれてどこにも見えなかった.今日は上天気である.ドルバが
顔を上に向けて言った.
「そんなわけなかろうが.昨日のリューナの話,聞いておらんかったのか?」
「あ,そっかそっか」
「まあ,いいがの.どちらにせよ,これでワシは快適な旅が出来るというわけ
じゃからな」
「馬だって,ドワーフなんかを載せるよりはよっぽどマシでしょうけどね」
馬車に馬を寄せ,ロリエーンが悪戯っぽく言った.
「何とでも言っておれ.ワシは馬が好かんのじゃ」
「ところでこのお砂糖,どうされるんですか?」
キティアの隣に座っていたミティラが聞いた.
「お主ひとりで食えるなら,置いておいてもいいぞ」
「そういう言い方って,ないんじゃないかなぁ」と反論したのは,アヤである.
「いくらドルバでもひどいよ.ロリエーンじゃあるまいし,ボクのミティラは
れっきとしたお嬢様なんだからね.こんな砂糖ばかり食べられるわけないじゃない
か.そのうちに太りだして,二目と見られないなんてボクには想像できないよ.
って,あ…」
「ちょっと,待ちなさい,アヤ!」
引合いに出されたエルフ娘の顔が怒りに紅潮する.
「今日という今日は,もう我慢の限界よ! ミティラさん,こんな虚勢張りの口
ばっかりな男なんかとつきあうことないわ! ろくに歌も歌えない吟遊詩人で剣も
まともに使えない戦士なんて,最低よ! アヤ,あなた何かひとつでもこれだけは,
って自慢できることがあって?」
「めったにボクの歌なんか聞いたことないくせに,そんなの滅茶苦茶だよ!」
アヤが泣きそうな声で反論する.ミティラは口に拳をあてて心配そうに二人を交互に
見やる.
「それに,そんなひどく言われる筋あいなんてないよ.ボクはまだロリエーンが
太ったなんてこと言ってないよ.ただドルバが無理矢理ボクのミティラに砂糖を食べ
させうようとなんかするから…とにかく言いがかりだよ!」
「それじゃあ,私の体形に文句があるって言うの? この私の?」
「えーい,やかましい! 誰が砂糖を食わせるなどと言った!」
ドルバが御者台から飛び上がりそうな大声でわめいた.
「売るに決まっておろうが! いったいどこの馬鹿が馬車一杯の砂糖を好きこのん
で食うんじゃ!」
というわけで,アヤとロリエーンの喧嘩もひとまず収まった.二人とも肩で息を
している.ロリエーンはまだ怒鳴り足りないといわんばかりに,キッとアヤの方を
睨みつけている.アヤはその視線をきっぱり無視してミティラの方を向くと,優しい
声でささやきかけた.
「ごめん,心配かけたみたいだね」
「ええ,でも,あなたも謝ったほうがいいんじゃないかしら」
「いいんだよ.あれはロリエーンが悪いんであって,ミティラのせいじゃないん
だから」
わざと大声で言ったつもりだったが,当のロリエーンは馬を先導のリューナの方へ
巡らせた後だったので,聞こえるはずもない.キティアはその間もずっと,まるで
何事もなかったかのように青空を見上げていた.
彼らに昨夜の戦いの気配は,ない.
ミティラだけがしばらく,涙に瞳を潤ませただけだった.
「それにしても」ツカサが手綱を引き,ドルバに尋ねるともなく言った.
「リューナの傷,かすり傷で良かったですね.もうすこし深ければ傷跡が残る
ところでした.まあ,彼女自身は気にしていないようでしたが」
「戦士たるもの,顔に一つぐらい傷があったほうがええんじゃ,と言いたいと
ころなんじゃがのう」
「曲がりなりにも女性ですからね」
「何が悲しくてこんな外界にやってきたんだか,ワシには見当もつかんわい.
全く,ミティラといいリューナといいロリエーンといい,お嬢様ぶった奴らの
考えることはさっぱりわからんわい」
ドルバはそうこぼす.確かに,この世界に女性の姿は少ない.
「わたしは?」
荷物の上からひょこんと顔を覗かせて,キティアが言った.
「わたしの名前が出てこなかったけど?」
「ああ,忘れておった」
「ひどーい.わたしだってお嬢様なんだから」
「はいはい,そうでしたね.済みません」
ツカサがそう言って訂正すると,キティアの方もひとまずよしとしたようである.
前の方を見る仕草をしながら彼女は御者台に尋ねた.
「ねえ,宿場まであとどのくらい?」
「もうすぐ見えてくるはずじゃが」とドルバが言った矢先に,リューナの声が
聞こえた.
「村が見えたわよ!」
*
高い木の柵が見えてきた.盗賊や獣,あるいは怪物達から身を守るために外壁が
作られるのは,この辺境の村では当然と言っていい.その材質は,煉瓦や石壁の
ような堅牢なものから,木の柵のような簡素なものまでさまざまではあるが.街道
沿いにあるこの村には特別堅固な外壁は不要なのであろう.
入口のところにある建物は,村への出入りを監視する監視小屋である.大都市
では通行税を取ろうと役人が待ち構え,門をくぐるだけでもひと苦労なのであるが,
ちいさなこの宿場村ではそういった取税は行われていない.また,街道を旅する
者に発行される通行手形をチェックすることも,あまりない.
塩と砂糖を売りに来た,という冒険者のなりをした一行を見て,特に荷台に
座る二人の女性を見て老齢の守衛は不思議そうな顔をしたが,念のために,と通行
手形を確認しただけで村へ入るのを許可された.
街道沿いにある宿場村としては,意外に大きな村であった.よくある宿場村では
普通宿屋が1軒ないし2軒,あとは村人の憩いの場となる酒場を兼ねた雑貨屋がある
程度であるが,この村は街道の両側に何軒もの露店と商店,宿屋が並んでいた.
通りに並行に裏通りがあり,それより外側は村人の簡素な家々が並んでいた.
「かなり活気のある村ですね」
ツカサが感心したように言う.
「商売をするにはいい土地柄なんじゃろうな.さて…こいつどうするかの」
ドルバは砂糖の山を見やった.その途端,
「あーっ!」
期せずして,ロリエーンが声を上げた.
「あれ,温泉だわ!」
ロリエーンが指さす建物から,白い煙のように湯気が立ち昇っている.二棟
並んだ建物の一方は宿屋のようであり,入口の看板には『シェリー亭・温泉あり
ます』と墨文字で書かれている.湯浴みができるとばかりロリエーンははしゃぎ
廻る.ドルバが何か言おうとしたが,ロリエーンの言葉のほうが素早かった.
「ねえねえ! 今日の宿はここにしましょう! 一日やそこら卵の到着が遅くなっ
たって変わらないんでしょう? わぁ,温泉なんて何年ぶりかしら.森にいたころは
よくお湯をかけあったりして遊んでたんだけどなぁ.ねぇ,ミティラさんもリューナ
もキティアももちろん行くでしょ?」
「え,ええ,まあ…」
語気に押されてミティラが曖昧に返事をする.
「よーし,決定! さあ行きましょう.ドルバ,砂糖はよろしくね」
「よろしくって,おぬ…」
ドルバの返事など聞くはずもなく,ロリエーンは宿屋へ馬を巡らせる.女性陣が
後から続いた.すっかり呆れ返ったドルバはしばらく二の句が継げなかったが,
その代わりに大きなため息をひとつ漏らした.
「お主ら,どうする?」
「私は部屋を押えて来ましょう…あの様子だと部屋のことまでは頭が廻っていない
でしょうしね.その後で教会にでも顔を出そうかと思っています.アヤはどうします
か」
「ボクは宿の酒場で喉慣らしでもしてるよ」
「ふむ」
それだけ言ってドルバは馬に鞭をあてた.ツカサとアヤは荷物を抱え,並んで宿屋
に向かう.馬車は軋んだ音を立てながら,なおも街道を進んで行く.
*
温泉は普通,そのまま入浴できるような温度で湧き出すことは稀である.正確
な定義はされていないようだが,入浴に供する為に,冷ますことはあれ,熱を加え
なくてよいものを温泉,熱を加えなければならないものを冷泉,あるいは湧水と
呼ぶ.ここシェリー亭の温泉は,かろうじて温泉であり,特に温度調整もされぬ
まま,湧き出すままに放っておかれている.
さぶううぅん.
「うわぁ,気持ちいいー! ほらみんな何してるの,はやく入っておいでよ!」
「そんなにはしゃがないでよ,ロリエーン.お湯は逃げないんだから」
リューナが制止するのも聞かずに飛び込んだのはもちろんロリエーンである.
彼女らの長い髪が温泉の湯で痛まないよう,二人は髪を頭の上に結い上げ,手ぬぐい
で巻き留めている.他に身に着けるものがあるわけではないが,ロリエーンの首に
は紫の首飾りが,リューナの腕には純金とおぼしき腕飾りが,それぞれ残されたまま
になっている.金と宝石は湯当たりで痛まない.
ばしゃっ.
キティアが遅れて湯に飛び込む.先に入っていたロリエーンにそのしぶきが
かかる.
「キティア,やったな!」
「へへーん,ここまでおいでー」
そういってぺろんと舌を出す.ロリエーンはいたずらっぽく笑うと両手を湯の
中に沈める.そしてすく上げた湯をキティアにぶちまけた.
「きゃっ!」
お返しにとキティアがロリエーンに湯をかけ始めた.バシャバシャという湯の
はじける音に混じり,キャッキャッと二人の楽しそうな声がはずむ.もちろん,
その流れ弾はリューナにもかかることになるが,当のリューナはそれを気にも
留めない様子で,軽く目を閉じ,ゆったりと湯に身体を任せている.
さらに遅れて,ミティラが浴場に入ってきた.はたと手を止め,ロリエーンが
彼女を見やる.そして不機嫌そうに言った.
「男の前じゃあるまいし,何をはずかしがってるの?」
ミティラは,髪に巻かれた手ぬぐいだけではなく,胸から腰までを大きく覆う布を
まとっている.両腕をちょうど胸を押えるように組んで浴槽の縁に腰かけて,
恥ずかしそうにミティラが言った.
「あの…,私,他の人とお風呂に入ったことがなくて…」
「あれれ? そうだっけ.前にみんなで一緒に温泉に入ったことがあったよね?」
「あれはもうずいぶん前のことよ,キティア」
「とにかく,そんなに恥ずかしがることないわよ.そんな風に隠されてるほうが
よっぽど恥ずかしいわ.あなたも普段お風呂に入るときにはそんな布巻いては入らな
いでしょ? ひとりの時でもみんな一緒のときでもそれは同じよ」
ロリエーンが頭の手ぬぐいを直しながら言う.
「え,ええ,でも,私,身体に自信ないし…」
「そんなこと別にどうでもいいわよ,大体あなたの身体で自信ない,なんて言われ
たら,世の女の大半は自信がないことになるわよ」
「…そんなこと,ないです」
ミティラの顔が上気する.
「じゃあ,あたしが,あなたの姿態が本当に称賛に値しないかどうか,調べてあ
げるから,とりあえずそれ脱ぎなさい.そもそもね,そんなふうに隠されてると
もったいないのよ」
「まるで脱がせたがってるみたいね」
リューナがロリエーンを茶化す.ロリエーンは赤くなって,
「ちょ,ちょっと,そんなのじゃないわよ.あたしはただ,温泉での女のつき合い
方を教えてるだけじゃない.そうよね,ミティラさん?」
「はい…じゃあ…」
ミティラもまた顔を朱に染めながら,肩口にある留め紐を外した.そして,
思い切りよく引き剥がすように脱ぎ去る.一斉に視線がミティラに集中する.
彼女は恥ずかしそうに両の拳を胸のあたりに持って行った.
「そんな,見つめないでください…」
「さすがはミティラさんだわ…」ロリエーンが嘆息する.「すごく肌が綺麗…
均整も取れているし,アヤがうつつを抜かすのなんて当り前よね」
ロリエーンは無意識に首飾りを弄んでいる.ミティラは立ったまま.
「なんでもいいけどミティラさん,お湯につからないと風邪ひくわよ」
「あ,はい」
胸にあてた手を離さないようにしながら,彼女は身体を湯の中に沈めた.鼻の
あたりと頬がうっすらと紅潮しているのがはっきり見て取れる.もちろん,湯に
のぼせたわけではない.
「胸はもうちょっと張っていてもいいと思うけど,まだ成長するわね.子供を
産む適齢になれば,きっともっと美人になれるわ.あたしが保証してあげる」
「あ,ありがとうございます.でも,ロリエーンさんだって,綺麗な身体」
「あたしは華奢なだけよ」
口ではそう言うが,ロリエーンの言葉に不機嫌そうな響きはない.
「そりゃあ,端目にはよく見えるのかもしれないけど,本当はもっと柔らかい
線を出せるほうが男の人間にはもてるらしいのよ.まあ,私は別に人間に誉めて
いただこうなんて思っていないからいいけどね」
「わたしもどっちかというと,すこしふんわりした,丸みのある感じがいい
なぁ.リューナみたいに引き締まった身体も嫌いじゃないけど,優しく抱きかかえ
てくれるのは,やっぱりふんわりした感じのひとだもん」
キティアが両腕を突き上げて伸びをしながら言った.
「リューナは鍛えた結果だから,この体型を保たないと意味無いんだってば,
ね?」
「ええ,まあ」
ロリエーンの問いにリューナはいい加減に返事をした.
「私はこの身体が好きだし,身体に好き嫌いがあるわけじゃない.身体は両親と
神から与えられたものだから,五体満足に産んでもらっておきながら文句を言う方が
贅沢だと私は思うけど」
「うーん,そんなもんかしら…」
「ところでミティラさん,荷物は?」
リューナが話題を変えようとミティラに振った.
「みなさんと一緒に籠の中に置いてありますよ」
「卵も一緒に?」
「はい」
「いけない!」
尖った声で,キティアが浴槽から飛び出した.
「ちょっと,何してるの?」
キティアは返事もせず,身体を拭くのもそのままに下着だけを身に着ける.
「盗られた,追いかける!」
言い残すと,キティアは駆け出した.残された 3 人は互いに顔を見合わせる.
ロリエーンが真顔に戻ってつぶやいた.
「碧眼竜…じゃないわよね」
「ええ,違うと思うわ…相手がそれなら,キティアも軽はずみには行動しない
はず.きっとただの板場荒しだとは思うけど…万が一ということもあるわね」
リューナも立ちあがった.
「追いかけましょう!」
*
キティアの目には,10 歳前後の少年のようにその盗人の姿は見えた.胸に
麻袋を抱えたままである,動きは俊敏であった.片手で柵をつかむとそれを軽く
飛び越える.背丈の半分は楽にある柵である.少年はこの宿場街に長く住んでいる
らしく,混み入った裏道や抜け道をうねうねと走り抜ける.彼の遊び場なのだろ
うか.キティアにとってみれば,人目につかないことがありがたかったが.
どこまで行く気だろうか.この街がいかに宿場で栄えているとはいえ,それ
ほど広いわけではない.おおきく街の外周部を廻っている,と彼女の方向感覚が
答えを出した.おそらく追っ手であるキティアを引き離そうと必死なのであろう.
そうこうしているうちに道はますます複雑で狭苦しくなってきた.キティアは
小柄とはいえ,少年ほどではない.そろそろ追跡が厳しくなってきた,その時.
突然,路地裏で少年が足をとめた.
キティアはその直前で身を屈めた.様子をうかがう…なにか変だ.
「よう,ネスティ.何をそんなにあわててるんだ?」
高圧的な声がきこえた.いや,成人した男のそれではない.ネスティと呼ばれた
盗人の少年は,さきの声とは対照的なボーイソプラノで答えた.
「な,何でもないよ」
「へえ,それだけあわてて,何もないってのかよ.それともこのバルフォン様に
言えないようなことか?」
「お,こいつ手に何か持ってますよ」
別の声が混じった.キティアはそっと壁ぎわに近付いた.
ネスティが,他の 4 人の少年に囲まれていた.どうやらこの地域のガキ大将と
その一派のようである.ネスティは麻袋を後手に隠す.その動きにリーダーらしき
少年…少年とよぶには多少大人びた彼がバルフォンなのだろう…が気付いた.
ニヤリ,と顔がゆがむ.
キティアはその時に初めて,気が付いた.ネスティの服が,先の逃走劇に比べ
て汚れていること,古ぼけていることに.髪の毛が手入れされた様子もない.
その場にいる他の少年と比較しても,ネスティは明らかに貧しさの面で浮いて
いるように見える.
ネスティがじりっとあとずさる.
どんな街にも,富むものと貧しきものは生まれる.そして,貧しきものは,
たとえ子供であっても,迫害される.それはどんな世界でも,同じ.
「ほう,このバルフォン様にも見せられないんだな」
ネスティより頭一つ高いバルフォンが,ネスティのおびえた瞳を睨み付けた.
その瞬間,後ろに廻っていた少年の一人が不意をついて袋を取り上げようとした.
汚れた麻袋は,ネスティがつかみ返した瞬間に音を立てて裂けた.
地味な装身具に混ざり,地味な金属の箱が転がり落ちた.
ネスティは口を開いたが,言葉が出ない.恥ずかしさ,焦り,怒り,罪の意識,
そういったものが一度にこみ上げて彼の表情をこわばらせた.バルフォンはそれと
好対照に,こぼれ落ちた物を見て目の色を変える.袋を奪おうとした少年とその
隣にいた少年がこぼれ落ちた品々を拾い上げる.ネスティはバルフォンの方を向き
直った.先までとはうって変わった毅然とした表情…あるいは,必死の表情とでも
言おうか.しかし,バルフォンはその表情を鼻で笑った.
「フン,お前みたいな貧乏人にはこんな物似合わねぇよ.仕方ない,これは俺
様がもらっといてやろう.なんか文句あるか,盗っ人?」
そして高笑い.他の少年たちも笑い合う.あからさまな嘲笑.ある者が足で砂を
蹴り上げた.笑いは途絶えない.小石を拾ってぶつける.唾をはきかける.笑いは
途絶えない.ネスティは無言だった.うつむき加減の表情はキティアの場所からは
伺えなかったが,両の拳がわなわなと震えていることだけははっきり見て取れた.
「へん,ネスティの盗っ人! 貧乏人の糞ったれ!」
誰かがはやし立てた.
ネスティの拳が,正面に立っていたバルフォンの頬をとらえるのとほぼ同時
だった.バルフォンは一瞬よろめいたが,続いて打ち出された拳をやすやすと右手
でつかんでねじり上げる.一瞬の怒りの表情の後は,すぐに残忍そうな瞳の光
に取って変わる.ネスティは痛みにこらえるように目をぐっとつむった.
「離せ!」
「俺様を殴っておいて,逃げられると思うな…!」
ひとしきり腕を締め上げたあと,バルフォンはネスティの腰を膝で蹴り上げた.
体格に倍近い差のあるネスティは,たまらず吹き飛び地面に倒れる.肘や膝にいや
というほど擦りむき傷ができただろう.
「よーし,お前ら…」
やっちまえ,と声がかかる直前にキティアは飛び出した.
「ちょっと待ちなさい!」
バルフォンがあげた手を止め,声のした方を見やった.他の少年たちもまた,
それにならう格好になる.ネスティだけが顔を上げなかった…痛みをこらえてい
るのだろう.キティアはそのいで立ちを気にもせずに彼らの方に歩み寄った.
「なんだよ,お前」
「今拾ったものを返して.それは元々わたしたちのものよ」
少年たちは,いきなり現れた所有者を前に判断をしかねていた.
「嫌だね」
バルフォンは答える.現れた人間は,いかに大人とは言え,女がひとり.
しかも,ろくに服さえ着ていないではないか.自分一人ならともかく,ここ
には仲間が 3 人いる.
「返して」
キティアがさらに一歩進みでる.バルフォンはさっと背中に右手を回した.
そして間髪をいれずにその右手をキティアに向かって突き出した.ナイフが残忍に
光った.
そして,バルフォンは自分が気付かないうちに宙を舞い,背中から落ちた.
キティアは突き出された右手を半身にかわしながら左手でつかみ,勢いに合わせて
投げを打ったのである.落ちると同時にバルフォンの右手首を踏みつけ,ナイフを
もぎ取る.あっという間の出来事であった.
「バルフォン,あなたはもう,立派な悪人よ」
キティアは言い捨てた.彼のナイフは決して護身ではなかった.自分の意志で,
しかも自分のおごりの為だけに,他の者を傷つけることを考える少年がいることが,
空恐ろしかった.それは,悪人の行為である.
「さあ,返して」
残った 3 人の少年は,袋をその場に投げうち,悲鳴もあげず真っ青な顔をして
あっという間に駆け去ってしまった.バルフォンも遅れて立ち上がると,右手を押
さえ,キティアに憎悪としか取れない眼差しを投げつけて立ち去った.あんな目を
される理由なんかないのに…キティアは思った.
キティアはまだ地面に倒れ,成行きを見つめていたネスティの方へ近寄った.
ネスティが何か言おうとするより早く,キティアの左手が宙を舞い,ネスティの
頬を打った.そして,笑って言った.
「それじゃあ,さっきの温泉まで連れて帰ってくれるよね?」
ネスティは,澄んだ瞳をうるませたかと思うと,キティアに飛びついて泣いた.
何故泣いているのかは,あえて考えないことにした.ふと,キティアの手が
ネスティの腰のあたりに触れたとき,キティアは驚いた.
ネスティ少年は,女の子だったのである.