Chapter.4

「マスター,エール三杯追加です!」
シェリー亭の一階は,他の宿と同様に酒場になっている.温泉上がりとおぼし きゆったりとした服を身につけている男たち女たちに交じり,今しがた冒険から 戻ってきたというふうな様子の若い一団がある.あるいは大きな荷物を床に下ろした 行商人らしき姿も見える.それぞれのテーブルごとに交わされる会話の間をぬう ように威勢のいい給仕達の声が飛んでゆく.
その喧騒の中,大きな丸テーブルになぜか二人しかひとの姿がない,奇妙な 空間があった.テーブルの真ん中には,予約していることを示すのだろうか,十 近いグラスがすでに並べられている.
二人のうち背の低い方は,辺りの騒がしさにおびえるようにしてきょろきょろ 見回してばかりいる.すっかり痛んだ栗色の髪をポニーテールのようにひとつに 束ね,そのまま後ろに流している.自分の着ている服に不慣れなのだろうか,度々 服の裾をつまんだり引っ張ったりと神経質そうにしている.
もう一方の背の高い人物は…世間一般から見ればそれほど背が高いわけでは ないのだが…特徴に乏しい普段着を身につけている.目立つ色でもなく,完全に 周囲の喧騒に飲み込まれていた.両手で少し水の残ったコップをもてあそびながら つまらなさそうにしている.
ほどなく,袖の短いラフな服装をした長髪の女性がそのテーブルの空いていた 席に腰かける.
「しかしキティア,あなたも物好きねぇ」
「しかたないでしょ?成り行きなんだもん.ロリエーンだって しっかりこの子の服選びとか髪いじりとかをやってたじゃない」
「あたしはただ,この子に女の子としてのたしなみというもの をわかってもらおうと思ってただけ.えーと,いくつだっけ?」
「十一」
「そうよ,十一歳にもなっておしゃれも着飾ることも知らない なんて,かわいそうだわ.キティアだってそれは認めるでしょう?…あ,すいま せーん,このテーブルにワイン二本と何か軽いおつまみ下さい」
そして,ふと思い出したように付け加える.
「あとそれから,レモンジュースひとつ!」
「あの…」
ネスティが何か言おうとすると,ロリエーンが左目で軽くウィンクをした.
「いいのよ,今日は気のいいお姉さんたちがおごってあげる から,お金とかそういうことは気にしないでいいわよ.何でも好きなもの言いな さいな」
「でも俺,あんたらの物を盗もうとしたんだぜ」
まだ表情からあどけなさが抜けない少女の口から発せられるのは,しかし, 悪ガキじみた乱暴な言い回しであった.ネスティに正式に言葉を教えた者などいない …いや,親と呼べる者すら.母親は歓楽街の娼婦であり,父親はそもそも誰とも わかる道理でもない.その母親も彼女が五歳の時に蒸発した.以後彼女は孤児とし て,誰に守られるでもなく,盗みや物乞いでその日を暮らして来たのだ.
恵まれた環境では決してなかったが,特別珍しい人生でも決してない.こうして 生きている者,生きて行けず死ぬ者は数知れない.慈悲を受けることもなく,哀れま れることもない.信じる者も守る者もない.彼ら彼女らに「神」はいないのだ.
「確かに,人の者を盗むことは悪いことよ」
ロリエーンは両肘をテーブルにつけ,軽く手を組んだ.
「生きていく為だったら,生きて行く為にそれしかできないの だったら,それは仕方のないことなのかもしれないわ.あなたは自分が止むなく 悪事を働いていることも自覚している.世の中には生活に何一つ不自由していない くせに,もっと自分の見栄えや格好をよくしたい,という思いだけで悪いことを 企んでる奴らだっていっぱいいるんだから.そんな人間たちに比べたら,あなた なんてずーっとマシな方よ」
「そんなもんかなぁ」
「気にしない気にしない.今日はたまたま脳天気な旅人たちに うまくとり入ったと思ってくれればそれで十分だから」
酒場の,彼女たちから見ると反対側の隅のほうから拍手が起こった.寸分の 狂いも感じさせない調律された和音が酒場の喧騒を沈ませ,久しく忘れていた 沈黙を取り戻させた.ワインボトルを運んでいた女中もその場に足を留め,吟遊 詩人に視線を送った.
澄んだ音色にあわせて,テノールの良く通る声.
子供のころ僕らは 鳥になりたいと思っていた
はるか大空を駆け巡り 大地の果てまで飛びたいと
その向うに見える 幸せのあふれた街に
きっといつかたどり着こうと 空を見上げていた…
旅をする吟遊詩人であれば一度はかならず歌う曲「鳥になる夢」である. 街の人々もそうでない人々もこの歌は知っている,それぐらいポピュラーな歌で もある.観衆からややまばらに拍手が起こる.キティアが横を向くと,ネスティも それに混じって拍手を送っていた.
「アヤ,『森の鹿姫』お願い!」
ロリエーンが手を振って吟遊詩人の方に声をかける.
アヤは軽く手を振って彼女の声に答えると腰かけに座り直し,二つ三つと 音の調子を確認する.さっきとはうって変わって陽気な長調である.ひと呼吸 置き,靴でコッ,コッとはずむようなリズムを刻むとそれにあわせて歌いはじめ た.
かわいいあの娘は 森の鹿姫
ぴょんぴょん飛びはね あっちへこっちへ
いくら追っかけても 揺れる金髪
ボクの腕には 届きっこないよ
側に来てよね ラブリーマイディア
ボクの可愛い歌姫よ!
陽気な旋律に酒場は先までの活発さを取り戻した.手拍子を取るもの, テーブルを叩いて音頭を取るもの,アヤの声に合わせて合唱する声.幾分滑稽に 響く彼の歌い方が人々を笑いへと誘った.アヤは弦をかき鳴らし続ける.
いつでも陽気な 森の鹿姫
ウィンク放って その気にさせる
あっと言ってる間に きらめく瞳
ボクの側まで 急接近
側にいてよね ラブリーマイディア
ボクの可愛い歌姫よ!
側に来てよね ラブリーマイディア
ボクの可愛い歌姫よ!
最後の繰り返しは一部酒が入って陽気になっている男たちとの大合唱にな った.終止和音が聞き取れないほどの拍手が辺りを埋め尽くした.アヤはひょいと 立ち上がって深く頭を下げ,そして手を挙げてそれに答えるとさっと舞台を降りた. 銀貨や銅貨が舞台に投げられる.それを,ネスティとさほど歳のかわらない着飾った 少年がひょいひょいと拾い集めている.
舞台に最も近い席に座っていたミティラをエスコートするように,アヤはミティラ の手を取ってテーブルに戻って来た.背丈のさして変わらぬ二人であるが,今は アヤの方が大きく輝いて見えた.
「最高だったじゃない,こういう時だけは見直すわ」
「それってあんまり誉めてないと思うんだけどなぁ… まあいいや,ありがとう.…ところで,この子?」
アヤはロリエーンの隣に座っているネスティの方に視線を向けた.ネスティは 先の勇者を目の当たりにして感激の様子である.どんな境遇に生まれ落ちようとも, 少女は少女である.
「そうだよ」
キティアが素っ気なく言った.
「すっげぇなぁ,俺さ,なんか感動しちゃったよ」
「ありがとう,そう言ってもらえるのが一番嬉しいよ」
ネスティの口調に,ミティラが一瞬戸惑いの表情を見せたのに対し,アヤは ごく自然に言葉を返した.そしてミティラに囁く.言葉だけで人は測れないと.
「ミティラ,瞳を見てごらん,あの子の瞳は子供の純粋さを 全く失っていない.多分,あの子が内に秘めていた感受性を,ボクの歌が揺り起こし たんだと思う.きっと彼女はすぐに可愛い女の子になるよ,ミティラみたいにね」
何を言ってるのよ,とでも言いたげな視線がアヤに刺さる.ミティラは頬を ほんのり染め,恥ずかしそうに片手を唇に寄せた.
「ワインお待たせしました!」
女中がボトルをテーブルに置く.グラスを手際良く並べ,炒り豆の入った皿を 置く.そしてレモンジュースをネスティの前に置くと,他に注文が無いかを尋ねた. ロリエーンが口を開きかけたところに,野太い声が割って入った.
「エールをジョッキに二杯くれるかの.それから鶏の詰めもの 焼きをひと皿焼いてくれ.あとは…また頼む」
そういって空いている席にどかりと腰を下ろしたのはドルバである.続いて ツカサがその隣,ネスティとちょうど真向かいになる位置で腰かけた.表情を浮かべ るわけでもなく,ぼんやりと彼女を眺めている.
「かしこまりました,ではごゆっくり…」
女中が下がると,ドルバもネスティの方を向いた.ネスティもその視線に ひるまず見つめ返す.
「ほう,この娘か.うむ,いい瞳をしておるな.女にしておく のはもったいない.ワシが戦士の訓練をしてやりたいところじゃな」
「ドルバに稽古をつけられたんじゃ,うまくなるのは酒の 飲み方だけでしょ」
ロリエーンが悪戯っぽく微笑んでドルバを見た.ドルバは賢明にも取り合わず,キティアに尋ねた.
「で,どこでこの子を拾ってきたんじゃ」
「路地裏.悪ガキどもにいじめられてたの」
キティアは簡潔に答えた.事情は先にリューナから伝わっていたので,ドルバ もそれ以上詳しくは確認しなかった.運ばれて来たエールのジョッキを干す. ロリエーンはグラスにワインを注ぐとそのまま左手でグラスを転がしている.ツカサ が彼女から視線を外し,テーブルに残るグラスの方に目線をやった.ネスティは, 彼女にとりどうやらこのめずらしい飲物は口に合わなかったのだろうか,一度口を つけただけで後はじっと浮き上がっては消えて行く泡を見つめていた.
遅れてリューナが席についた.
ほぼ同時に,鶏の焼き料理がどんとテーブルを占拠した.さっそくドルバは ナイフを入れるのももどかしい様子で腿肉を引きちぎった.裂け目からばらばらと 野菜の詰めものがあふれてくる.
「ちょっとドルバ,もうちょっと食べ方考えたらどうなの?」
「何を言っとる,こういうものは豪快に食うのが一番旨いん じゃ.ちまちまナイフやフォークでなど食ってられんわい.のう,ネスティ?」
ドルバがにやっと笑ってネスティの方を見た.ネスティもにやっと笑い返すと, もう一方の足をちぎり取ってかじりついた.リューナがクスクスと笑う.ミティラが 大皿からこぼれそうになった野菜をナイフとフォークで器用に小皿に移しかえ, 胸肉をすこし切るとそっとアヤの前においた.
「ありがとう,ミティラは優しいんだね」
アヤは照れながらその心使いに答え,ミティラは微笑みを返す.
「食べるのはいいんだけど…」リューナが真顔に戻って言った.
「彼女,どうするの?」
リューナの視線は鶏の足と悪戦苦闘している少女に移った.ドルバが一杯目の ジョッキを空にし,二杯目に手を伸ばす.キティアがロリエーンのグラスからひょい と目をあげて言った.
「ここにいたって身寄りないわけでしょ?どうせあてのない旅 なんだし,連れていってもいいんじゃないかなぁ」
「しかし,のう」
ドルバは鼻の頭を掻いた.
「危険じゃ,ワシらの旅は.ここにおれば少なくとも,命に かかわることはないわけじゃ,これまでも生きて来れたし,これからも生きて行ける じゃろう.多少のひもじい思いだけで済むはずじゃが…」
ミティラがそっと頷いて同意を示す.
「それだけ,人生の意味も薄くなるわ.ばかばかしいわよ, そんな生き方」
「そうだよ」
ロリエーンの台詞に同調したのはアヤだった.
「この世界の広さも楽しいことも夢も希望も知らないで生きて いくなんて,籠の中の小鳥だと思うな.全然…なんて言うのかな,そう,実りの ある人生というのが送れないと思うんだ.価値のある人生にならない,って言った 方がいい?それとも,目標を持てない,探すことさえ出来ないっていうか,そういう 感じ」
ロリエーンはグラスのワインを一気に飲み干した.アヤは続ける.
「そりゃ,危険かもしれないよ.でも,何も知らず壁の中で 一生を過ごすより,広野で狼に噛まれて死んだっていうほうがボクはいいと思う. 彼女の目には冒険をする人々に共通の光がある.ドルバもそう思ったんでしょう?」
「危険は我々が回避すればよいのです,ドルバ」
ツカサが口を開いた.そして穏やかに言う.
「彼女とここで出会ったのは何かの縁(エニシ)なのでしょう. 冒険家でも旅人でもない彼女は,冒険家であり旅人である我々には見出せない 何かを,きっと見つけだしてくれるのではないかと思います.ただ…全ては本人の 意志による.彼女自身に聞いてみてはいかがでしょう?」
「俺?」
呼ばれたと思ったのだろうか,ネスティがかじりついていた,もうほとんど骨 しか残っていない鶏の足をやっと解放して見上げた.ロリエーンが椅子から降りて 屈み,ネスティと視線の高さを合わせた.
「ねえネスティ,これから,また普段の生活に戻る?私たちは, あなたと一緒に旅に出てもいいと思っているんだけど」
突然の問いかけに,ネスティはきょとんとしてしまった.言葉の真意を計りかね ているようであった.
「あなたの生き方だから,あなたに決めて欲しいの.この街 には,悪ガキぐらいしか恐いものはないと思うけど,一歩この街を出たら,死と 隣合わせの広野ばかりよ.でも,この街では出会えない,あなたの知らない 不思議なこともいっぱいあるかもしれない.どうかしら,旅に出たい?それとも, この街を離れるのは嫌?」
難しい質問かも知れない.彼女は年端の行かぬ少女である.
ネスティは黙った.
辺りの喧騒が一瞬,このテーブルを吹き抜けた.
「…まだ小さかったころ,お話を聞いたんだ」
重々しく,ネスティが口を開いた.思い出しながら,それは深く掠れて消えそうな 記憶の糸を手繰り寄せながらの言葉.遥か彼方に置き忘れた記憶,紫に光る瞳の 奥に閉じ込められていた,記憶.
「世界から世界へと旅する冒険の物語.一つところにいないで 飛び回る…なあ,おじさんおばさんたちも」
「お姉さんたち」
ロリエーンが素早く訂正する.
「お姉さんたちも,そんな人たちなんだろう?それなら俺, ついて行きたい.今まで見たこともない何かが,そんなのが見られるんなら.今まで ずっと,そんな何かを見て来たんだろ?」
「そうね」
ひとときを置いて,答えたのはリューナだった.
「あなたみたいな女の子も,そう,見たことのない何か,だった のかもね」
ドルバが笑いだした.つられてネスティが,一瞬遅れて笑い出す.ロリエーンも, ミティラも笑った.ツカサはわずかに微笑んでグラスを軽く挙げた.
「新しい仲間の誕生です.前途に神の導きのあらんことを!」

*

夜.
全てが闇のヴェールに包み込まれる時間.美しさとともに狂気さえもその 象徴とする白銀の月が天空に現れた.街は昼間の活気を失い,ひっそりと静まり かえる.何者かに怯えるかのように.
長いツカサの詠唱が終わった.
「…彼女は潔白です」
ふうっ,と周囲から安堵のため息がもれる.
「バカバカしい.あたしたちを付け狙う女の子とかいうんなら, もうちょっと警戒心を見せても良さそうなものだと思うけど?ちょっと気にしすぎ なんじゃない?まさか二回も三回も同じようなからめ手で来るような連中でもある まいし…」
ロリエーンが早口でまくし立てた.彼女の潔白を証明するために彼女の心を 覗く,という行為には賛成できない.そんなことをしなくても彼女は十分彼らの仲間 としての自覚がある.それよりも,この行為は明らかに彼らの都合で行っていること である.人の心をそんな風に他の誰かの利害だけで覗くなんて認めたくない.
「何十年もの間敵の勇将として戦っていたスパイだっている のよ,ロリエーン.権力は,人間のそれは,彼らの人生が短いからいっそう,耐え がたい欲望として訴えかけて来るものなの…わかっているんでしょう?」
「わかってるけど!」
ネスティは既にベッドで寝息を立てている.急にいろいろなことがあったから だろうか,すっかり疲れ切っているようであった.寝返りをうつ.ミティラがずれた 掛布を整える.
「どちらにせよ,これでワシらの敵でないことは明白じゃ. ツカサにせよ人の心を覗き見するような真似はしたくてやっておる訳ではない, 今回ばかりは十分すぎる以上の警戒をせねばならんのじゃ,のう?」
ドルバは誰に言うでもなく,ひとりごちた.
「さてと,ワシは寝る」
「そうですね.では男たちは退散しましょうか」
ツカサがドルバに引き続いて外に出た.アヤがそれにならうように部屋を出 ようとし,ふと窓の外に目をやった.刹那,闇が空をよぎった.黒い影.
「どうしたの,アヤ?」
「ん,いや,見間違いかなぁ.何かが窓の外を走ったみたいに 見えたんだけど…ここ二階だよね.ボクも疲れてるのかなぁ,久しぶりに歌ったし」
「ちょっとぉ,脅かさないでよ.ゆっくり眠れなくなっちゃう じゃ…!」
今の今まで沈黙を守っていたキティアの手が動いた.いつの間にか逆手に握って いた投げナイフが部屋を横切り,窓の外へ消えた…いや,何もない中空で何かに 突き刺さるように停止した.刃先が消えている.
「『透明化魔法』…!?」
リューナが口に出す.慌てて荷物の中にある自分の剣を抜き放つ.ロリエーンが ネスティを,アヤがミティラを庇う位置に立つ.
虚空に浮かぶナイフから,黒いしみが広がりはじめた…そのしみは急速に面積 を増し,全身漆黒のローブを纏った人の姿になった.背中には黒い蝙蝠の翼.ナイフ はその胸に深く,人の命を奪うには十分な位置と深さに突き立っている.しかし, ゆらめく翼はそれがまだ死んでいないことを雄弁に物語る.
風が,フードを払った.顔が露わになる.
「…!」
彼らは一人として,声を上げなかった.
髪の無い頭部には小さな角.土色の肌.瞳の無い真っ赤な目,大きく裂けた 口には犬歯だけが異様に長く光る.尖った耳.細長い四肢に不釣合なほど長く伸びた 鈎爪が長衣のすき間から見え隠れしている.ナイフの突き立った胸からは,しかし, 血の一滴も滲んでいない.異形のものは,この世界の生命ではない.生命でさえ ありえない.魔法の言葉で組み立てられた,仮初の息吹.彼を生み出した者の命令 だけを愚直に守る,操り人形でしかない.
それは,窓から飛び込んで来るとまっすぐミティラ目がけて飛びかかる.
リューナがその前に立ち塞がった.長い爪を剣で受ける.金属がぶつかりあう ような,鋭い音.リューナは後ろへ退けぞり,体勢を崩す.その姿や四肢から では想像できないほどの力と,重さ.
「こいつも,卵を…」アヤがつぶやいた.無論,答えるものは ない.
それの胸から,ナイフが抜け落ちた.傷口は細い穴となっていたが,見る間に それはちいさく,塞がっていく.まばたきの間に,その傷は完全になくなっていた. ナイフが床に転がる音がする.
それの二撃目をリューナが横殴りに弾き返した.反動でそれは壁に,リューナは ベッドに激突する.その物音と振動に,ベッドで眠っていたネスティが目を覚ました.
「ん…」
「ネスティを押えてて!」
ロリエーンが叫ぶ.同時に呪文を紡ぎはじめた.右手が複雑な印章を結び, 左手が部屋の隅にあった鉢植えに触れる.ネスティはきょとんと当たりを見回そう とした.
「うわっ!」
その目前にアヤが飛んできた.素早く体勢を立て直したそれの三撃目を 真正面から受け止めたらしい.ネスティの横をごろりと転がって壁にぶつかり, やっと止まった.袖が裂かれた右腕に血の跡が細く二つ滲んだ.
『蔦よ,我が声に答えよ!』
突如,鉢植えのうえでおとなしくしていたつる草が急激に成長をはじめた. それは床すれすれを浮かんでいた異形のものに襲いかかり,あっという間に縛り あげた.翼を封じられ,体勢を崩されたそれは床板の上に落ちる.
起き上がったリューナがわずかな言葉で呪文を唱えて剣に触れる.そして 蔦に絡まれて動けないそれの脳天に,ためらいなく剣を叩きつけた.
言葉ではない悲鳴が響く.直接頭に響くそれは音ですらない.異形のものは 頭部を粉砕されてもなお蔦から逃れようともがいていたが,その動きはすぐに弱 まった.そしてその動きが停止すると,その仮初の身体は急速に分解を始めた. 見ている間にそれは崩れ去り,ひとにぎりの砂粒になった.窓から吹き込む風が それを吹きさらす.
普通の武器では,それに傷を与えることはできないかもしれない.しかし, ほんの少しでも魔力を封入された剣はやすやすとその不死性を破ることができる. たとえその魔力が剣に対してどのような能力をも与えないものであったとしても.
「お主ら,大丈夫か?」
隣の部屋からドルバ達が駆け込んできた.遅れて騒ぎを聞きつけた野次馬が どっと押し寄せ,あっと言う間に宿は混乱に陥った.リューナはしばらく剣を握った まま乾いた砂を見つめていたが,危険がないとわかると剣をさっと鞘に戻した. ロリエーンがため息混じりに,
「あたし達は,見せ物じゃないわよ.」
「ほれほれ,さっさと帰った帰った.お主らに観客は危険はない わい.夜中に大きな音をたてて済まんかったの.ほれ,はよう自分の部屋に戻って くれんか,ワシらも眠れんではないか.」
「しかし,事情を説明していただかないと…」
宿の主人らしき,気の弱そうな男がおずおずと言う.
「わかっとる,事情は明日ゆっくり聞かせてやるから,今日は眠らせてくれ んかの.おいこら,いつまで勝手に人の部屋を覗き見しとるんじゃ!」
ドルバがわめいた.それで決着したと見え,あるいは何も起こらないのに興さめ して,野次馬たちはつまらなさそうに彼らの部屋へ引き上げていった.主人はという と,明日納得の行く説明がなければ役所に訴えますからね,と念を押して苦い顔で 引き上げて行った.ふと見ると,キティアがさっきからクスクス笑っている.
「どうしたの,キティア?」
「だって,さっきの人,今の騒ぎで財布すられたのに気付いて ないんだもん.」
「盗人だって,見物料は欲しいじゃろうな.ワシは寝る.ではな.」
ドルバは状況がわかっているのかいないのか,早々に引き上げる.戦いが終 わっているのでは,ツカサもほとんど出番がない.アヤの腕の傷を消毒止血して, 連れだって部屋を出て行く.アヤの傷は見ため程ひどくはないようだ.キティアは というと,ひとしきり笑った後すぐにベッドにもぐり込んでしまった.
「…なんだったんだ,今の?」
ネスティの問いは,さっきまでの元気な声とはまるで別人だった.
「気が変わった?」リューナが言った.
「あんな怪物が,それとも猛獣や幽霊なんかがこれから先もいつ どこで襲ってくるかわからないのよ.冒険物語は夢と希望ばかりじゃないの.どんな ところにだって恐いことやつらいこと,厳しいことはあるのよ.それでもあたし達 と一緒に来るの?」
「…ここでつまんない暮らしをするよりマシだもん.」
「全く,頑固ねぇ.さっきは相手が一匹だったからああして かばってあげられたけど,もしもの時は助けて上げられないかも知れないのよ.」
「そんなにいじめてあげなくてもいいんじゃなくて, ロリエーン?」
「はあい.」ロリエーンはちょこんと舌を出した.
「あなたもおいおいいろんな事を覚えて行くわ.生き延びる ための方法,武器や道具の扱い方,いろいろな国のいろいろな文化と生活.それに 冒険者としての生き方もね…さあ,私たちも寝ましょう.明日は早いわよ.」
リューナはそう言ってキティアを指さす.キティアは既に心地よさそうな 寝息をたてていた.ロリエーンは大きなあくびを手で押さえながら,ふと気付いた ように言った.
「掃除は後でいいのかしら?」
「大丈夫よ,もうただの砂だから.今日はもうこれ以上何か あるとも思えないし…それに,宿屋で夜番を置くのも変でしょう?」
「そうね.それじゃ,おやすみなさい…ネスティ,明日は時間 通りに起こすから,覚悟してなさい.」
「わかってるよ.」
「よろしい.」
ロリエーンはクスクスと笑った.笑ったかと思うと既に意識は闇の中へと 落ちて行こうとしていた.夜はまだ始まったばかりである….

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